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青木会長から、グラウンドの改修問題について、大学との折衝やその財源措置など大変な苦労話を聞き、
非力な私に何かできることはないかと考えあぐね、卒業時にたしかグラウンド全景を
撮影したスナップがあるのではとの記憶が蘇り、これを倶楽部に提供すれば、現状との比較に役立つだろうと考えました。
我が家の押し入れにある柳行李を開けたところ、白黒の合成した全景スナップを見つけ、
それをスキャンにかけ、合成部分やシミ・ヨゴレの修正を施しデジタル化したものを今年初に岩瀬君に送付、
それがHPにある「思い出の写真館No.20-017」として掲載されたようです。
このたびのHP更新担当である坂田君からの要請で当スナップについてコメントを寄せるものです。
これは、1967年初冬、ゼミ(先生は83〜89年の7年間陸上競技部の部長に就任された塩野谷祐一先生)の教室が 飯野記念館の4Fにあり、ゼミの合間を利用して窓から左右に2枚撮り、それを合成したものでありました。 このスナップの上部には、我が「バテ松」が厳冬の中、孤高然としてその姿を留めておりますが、 今日現在、「バテ松」は、ケヤキと思しき樹木を共生させ、包容力をもってグラウンドを見守っているようです。 真冬の練習後、部室の2階から、暮れなずんだ西方を眺めれば、松林の間に映る富士山の影を交えた真っ赤な夕焼けは、 未だに私の脳裡にくっきりと思い浮かんできます。 先輩の多大なご支援により運営されてきた先輩・後輩ともども送ったクラブ・ハウスでの日常生活、 週に一度は気軽にグラウンドに顔を出され部員と会話を楽しまれた当時の部長の都留重人先生、 こうした思い出はグラウンドの介在なしには、語れないものです。 現在の陸上競技場の主流は全天候型であり、牧歌的なグラウンドで育まれた我々には皮肉な言い方をすれば、 誠に無機質・機能一点張りではありますが、現役部員が試合前にはそうしたグラウンドで調整練習せざるをえないことを 青木会長から聞かされ、一先輩として郷愁に思いを駆られて時代に抗することも大人げないと反省しきりでありました。 環境豊かな国立キャンパスの中のグラウンドということを考えれば、バテ松のような由緒ある名所は残し、 その中で機能性を追求するというやり方もあることでしょう。グラウンドという共通した場で育てられた 我が一橋陸上競技倶楽部の面々は、各々の立場で積極的にグラウンド改修問題に関与し協力する 責務があるような気がしてなりません。 (2011年8月26日受信) |