都留重人先生と塩野谷祐一先生


 吉田良造先輩より、陸上部部長であられた都留重人先生および、塩野谷祐一先生の業績を後輩に伝えたいとの依頼がありました。吉田先輩は塩野谷ゼミに属していて、ゼミの後輩である須田氏が2016年に、両名について書かれた論考を、本人掲載同意のもと、紹介いたします(HP管理人)。


 我が部第4代及び第6代部長に就任していただいた都留重人先生及び塩野谷祐一先生を我が倶楽部のレジェンドと称することは失礼千万かもしれないが、両先生の一業績を紹介することは、我が倶楽部史上一つの画期をなし、大きな知的遺産として永く留めておくべきと考えるので、お赦しいただきたい。

 以下の論考は、塩野谷ゼミ1968年卒・須田邦之氏[卒後、東京海上火災保険株式会社(現東京海上日動火災保険株式会社)入社、同社取締役、常任監査役を歴任された。]が「都留重人先生と塩野谷祐一先生」と題して2016.11に叙されたものであり、紹介いたします。
(1967卒・吉田良造記)


 学生のときから私が書物や講義を通して最も多くを学んだ、都留重人先生(1912-2006)と塩野谷祐一先生(1932-2015)にはいくつかの共通点がある。

一橋大学学長
 第1に、ともに一橋大学学長であったこと。都留先生は1972年(60歳)から3年、塩野谷先生は89年(57歳)から3年学長を務めている。1949年の学制改革以降今日まで一橋大学では17名の学長が誕生しているが、そのほとんどは母校出身者であり、一橋以外の出身者はわずか3名にすぎない。その3名のうちの2人が都留先生(ハーヴァード大卒)と塩野谷先生(名古屋大卒、ただし大学院は一橋)であり、それも共通点といえるのではないか。この点に関連して都留先生は自伝で回顧している。学長として最後の行事であった名誉教授との会合で「母校の近況について」報告しようとしたところ、「てめいの母校ではねえ」という野次がとんできた。それは面罵の軽口をたたくことで有名なT名誉教授の発言だったので特別気にしなかったが、そのとき忽然として一つのことに気がついた。それは「私が一橋大学に遺したことがあったとすれば、一橋出身者でない「よそもの」が学長になりえた先例ではなかったかという点である」(「都留重人自伝 いくつもの岐路を回顧して(第20回)」『世界』2001年8月号。自伝は雑誌連載終了後2001年単行本として出版された)。
 この文章が書かれたとき、「よそもの」であった川井健学長(東京大学出身)と塩野谷学長は既に誕生していたので、都留先生の脳裏にはその2人のことが浮んでいたに違いない。

一橋大学陸上競技部長
 第2の共通点はともに一橋大学陸上競技部長であったことである。
都留先生は、1959年から72年まで13年間陸上競技部長を務め、部員と交流を深めた。「私の趣味でもあった陸上競技の舞台で部員諸君との親交を重ねることができたことは、若い世代から刺激を受ける好機会であった」(前掲「自伝(第19回)」『世界』2001年7月号)。各種目ごとにその目標を突破した部員に「都留杯」を渡す制度を発足させ部員の励みとしたこと、1952年以来惨敗を続けていた対東大戦に66年に勝ったときには「悲願」達成の褒美として本土復帰前の沖縄へ合宿に行かせたこと、年末の忘年会にはいつも50名ほどの部員全員を自宅に招き、懇意の寿司店店主の出張で寿司をにぎってもらうもてなしをし、庭でクロッケィや輪投げをし最後に部歌を合唱したこと、夏には毎年15人ほどの部員が追分の先生の別荘で自炊合宿をしたこと、などを振り返り「子供に恵まれていない私ども夫婦にとり、陸上競技部々員諸君との日常的懇親は天与の機縁であった」(前掲)と述懐する。そして「30年後の今日まで、毎年晩秋のころには私たち夫妻を招いての宴を催してくれており、やはり陸上競技部の諸君は、私たち夫妻の「子宝」代役と言えたのである」(同)。

 部長をやめたのは学長に選ばれたからであった。陸上競技部の前任の部長は山中篤太郎教授(1949年から59年)、その前は中山伊知郎教授(1931年から49年)、その前は高瀬荘太郎教授(1929年から31年)といずれもその後学長職についており、「高瀬・中山両教授以来、陸上競技部長をしていると学長になるという「伝統」のおかげだったのか、私の場合も前例どおりとなり、1972年の春、私は学長に選挙され」(同)、部長をやめざるを得なくなった、というのである。自伝の雑誌連載第19回のサブタイトルは「陸上競技部長は学長となるのが一橋大学の伝統」となっているが、陸上競技部々員とのありし日の交流の様子は自伝の多彩な記述のなかでも私にはひときわ印象に残るものであった。

 塩野谷先生は、都留先生のあとの細谷千博教授の後任として1983年陸上競技部長に就任した。陸上競技部には『アスレティック・フロイント』という名の部の年誌があるが、先生はその部誌に83年から毎年「部長巻頭言」を載せている。題名を列挙すると、「新任の言葉」「勝敗と記録」「第三の財」「心身問題」「スポーツと倫理」「『十三無』」「陸上競技を見ること」となっているが、いま改めてこれらの文章を読むと、塩野谷先生のものごとの本質を追求する考え方が全篇を貫いている。「新任の言葉」は、「陸上競技部は私にとって知的な新世界です」という言葉で終わっているが、在任中の部員との交流が知的な刺激になったことは間違いなく、退任挨拶となった最後の「陸上競技を見ること」における次の文章は示唆的である。「わたくしは過去7年間、陸上競技部の部長として学生諸君の競技をもっぱらみる機会に恵まれた。こういう具体的な経験の中に学問的観照の精神を改めて反省することもあった」。
 さらに後年『一橋大学陸上競技部史』(1999年)に寄稿した文章では、社会制度は「ゲームのルール」と呼ばれるように、スポーツ・ゲームは社会の問題の縮図であり、経済社会の隠喩の対象としてとらえられる、7回にわたる『アスレティック・フロイント』の巻頭言は、そのような観点からスポーツの哲学的思考を試みたものである、として、概略次のような議論を展開している。

 スポーツは、陸上競技や水泳のように記録への挑戦を目的とし、相手を必要としないものとラグビー、テニス、野球のように対抗する相手を必要とするゲームの2つの型に分けられる。記録型のスポーツは卓越したパフォーマンスを求めるものであり、対抗型のスポーツは、相手に対する攻撃と防御の駆け引きの技術を競う。競技の人的構成に着目すると、さらに個人型とチーム型とに分けられ、チーム型は、「記録」「闘争」に加えて「協調」という要素をスポーツに持ち込む。社会システムの認識について、とくに市場機構における競争の理解にとって、スポーツの隠喩から導き出されるこの3点は重要である。普通、競争市場では「闘争」の側面が強調されるが、それ以上に求められるのは、「記録」への挑戦としての卓越やイノベーションの追求と、「協調」の陶冶としての共同体へのコミットメントや社会連帯である。 陸上競技部70年の伝統は、意図せずして、自己との戦いを通じて卓越と連帯を求める人間精神のあり方を生み出してきたのではないか。私の陸上競技部との関わりは、「観照」のそれであって、競争の倫理という経済哲学の問題意識を育んでくれた。

 かくして塩野谷先生が名著『経済と倫理−福祉国家の哲学』(2002)第4章「資本主義の倫理学」において展開された「競争とゲームの隠喩」「『記録』と卓越の倫理」「『闘争』と正義の倫理」「『協調』と信頼の倫理」といった議論は、陸上競技部とのかかわりのなかにその源があったことがわかる。

 塩野谷先生は1989年に部長を退任するが、それはまさしく前例どおり学長に就任するためであった。(塩野谷先生に関する陸上競技部の資料は、塩野谷ゼミOBで陸上競技部OBでもある吉田良造氏と池田隆弘氏にご提供いただいた。)

シュンペーター
 第3の共通点は、ともにシュンペーター(1883−1950)と深いかかわりがあったことである。 都留先生は、1933年から10年間、学生、助手、講師としてハーヴァード大学で過ごすが、そこでドイツから移ってきたシュンペーターと出会い大きな影響を受ける。伊東光晴教授によれば、「折にふれ、自分の研究課題、進むべき方向性について、指導を仰いでいる。都留さんのハーヴァード大学院時代は、シュンペーターの講義とゼミナールにフルに出席し、文字どおり私淑したといってよい。(中略)経済学者都留重人にとって、シュンペーターが与えた影響は大きい。10代の第八高等学校時代に受けたマルクスの影響が経済学者都留重人の生みの母であるとすれば、シュンペーターは父である。」(伊東光晴「経済学者 都留重人」尾高・西沢編『回想の都留重人 資本主義、社会主義、そして環境』2010)。

 塩野谷先生にとっては、シュンペーターは師ではなく研究の対象であった。『経済発展の理論』を翻訳した後、シュンペーター研究に本格的に取り組み、それはやがて『シュンペーター的思考−総合的社会科学の構想』(1995)、Schumpeter and the Idea of Social Science:A Metatheoretical Study,1997、『シュンペーターの経済観−レトリックの経済学』(1998)として結実する。シュンペーターの業績をメタ理論(理論を研究対象とする理論)の観点から考察し、経済哲学の三領域(存在論、認識論、価値論)に対して独特の貢献を果したとする先生の解釈は、シュンペーター研究の新しい領域を切り開いたものとして国際的な注目を浴びた。

 1992年8月、20カ国から150人の研究者が京都に集まり、4日間にわたって国際シュンペーター学会総会が開かれた。会長を務めたのは塩野谷先生であり、招待講演(題名「もし今日シュンペーターが生きていたならば」)を行ったのは都留先生、学会の国際舞台で中心的役割を担ったのは、ほかならぬ二人であった。
都留先生の歿後、塩野谷先生は、都留先生とシュンペーターとのかかわりを問う「都留重人とシュンペーター」(前掲、『回想の都留重人』所収)を著し、シュンペーターとの出会いが都留先生の学問の本質的な部分にかかわっていたと回顧している。

ラスキン
 第4の共通点は、ともにラスキン(1819−1900)の思想を高く評価していたことである。
 塩野谷先生によると、「都留は戦後になって、環境、公害、福祉、ライフスタイルなどの実践的活動の中で、労働の人間化や生活の芸術化を含む「生活の質」の問題と取り組むようになると、資本主義の商業文明にいち早く鋭い批判を提起したラスキンに改めて思いを馳せ、その先見性にたびたび感嘆の賛辞を送った」(塩野谷、前掲論文)。そして、「都留は、主流派ないし数理派経済学を超えた分野において、国際的に活躍した最初の日本の経済学者と言ってよいであろう。彼は一方で、政治経済学へのマルクス的接近方法を取り、他方で、心情的に生活の質についてのラスキン的思想を内実とする「科学的ヒューマニズム」を追求した。古今東西の思想家の中で、都留が傾倒と帰依を明らかにしたのは、この二人以外なかった」(同)。

 塩野谷先生は、不安定な現代経済社会の基礎にあるのは功利主義であり、それは近代啓蒙主義の産物であるとし、ロマン主義を啓蒙主義批判の包括的思想としてとらえ、その例証としてグリーン、シュンペーターとともにラスキンの思想を取り上げた。従来のラスキン研究では芸術論と経済論とが別個の主張として取り扱われる傾向があったが、塩野谷先生は、両者は統一的に解釈することができるとし、そうしたラスキンの経済学を規範的経済学と位置付け、その経済学批判および資本主義批判は経済思想史上独自の福祉思想の流れを代表するとして高く評価した。生前発表された最後の論文が「ラスキンの三角形−富・美・生の総合知」(一橋大学経済研究所『経済研究』第65巻第2号、2014年4月)であったというのも、先生のラスキンに対する評価の表れとみることができる。

公害をめぐる都留・塩野谷論争
 以上、両先生の共通点を綴ってきたが、最後に、1970年代に二人の間で「公害の定義」をめぐって論争があったことを記録しておきたい。
 都留先生は、1968年の論文(都留重人編『現代資本主義と公害』)において、公害現象と資本主義体制との関連が密接であることを強調し、公害問題の解決をはばんでいる体制的条件として、土地私有制のため市街地と工場などの合理的ゾーン制をとることができない、外部不経済は内部化できない、資本主義のもとでは工場立地の計画性を徹底できないといった指摘をおこなった。

 これに対し、塩野谷先生は、1970年の論文(「環境破壊の体制論的把握」『東洋経済・臨時増刊』1970年10月14日号)において、公害が資本主義体制のもとで起きるとしても、それは資本主義体制だけに固有のものではないのだから、体制的基礎に立ち帰って議論するためには、機能的な概念の定式化が望ましい。体制概念から出発して公害問題を論ずるのではなく、公害概念から出発して体制問題を考えたい、公害は体制をこえた普遍的現象であるとし、具体的には、「環境という資源の使用・破壊・損耗」を「公害」とみなす「環境破壊論」の可能性を追求したいと主張した。さらに「公害問題は集権的な政治経済体制のもとで容易に解決されると考える先入見がある。それは、計画さえ強力にやればなんでもうまく処理されるという素朴な誤謬である。集権的体制にみられる表面的な簡単さは、その奥に本来あるべき個人と社会との関係についての複雑さを隠蔽している」と論じた。
 これに対し、都留先生は、1972年の書物(『公害の政治経済学』)において「公害現象を機能面で把握することには反対ではない」。しかし、「体制面から完全に独立した機能的把握ができるのかというと、必ずしもそうではない」。同じ空港騒音でも、アンカレッジでは公害扱いされないが、大阪国際空港周辺では公害となるように、「塩野谷氏の言う「環境という資源」なるものも、実は、特定の社会的条件と無縁に規定できる概念ではないのではないか」と言い、「元来、公害について大事なことは、その定義ではなく、どのような対策がそれぞれの場合について有効かという点にある」と反論した。

 この都留先生の反論に対し、塩野谷先生は、1973年の書物(『福祉経済の理論』)のなかで「都留重人教授へのお答え」を述べる。自分の意図はもともと、公害を機能的概念として把握したうえで公害と体制との関連を示そうということにあった。「結局において、わたくしが公害と結びつけた体制要因は、環境資産の所有権(すなわち環境権)の帰属をどう規定するかということであった。環境権の社会的帰属が明確に制度的、体制的に規定されていないかぎり、利潤追求の有無とは無関係に(資本主義体制でなくとも−引用者補足)公害は発生するからである。しかもこの環境権の規定は、従来の経済体制の理解から欠落していた新しい問題であることを指摘したかったのである」。「機能的概念とか、機能的把握といったとき、それはあくまで議論の出発点の話であって、環境資産という対象に行きついたとき、そこに新しい体制的概念としての公害を規定したのである。ところが都留教授は、わたくしが技術的、機能的把握に終始しようとしたと誤解されたのではないか。もちろん都留教授のいうように、重要なことは定義ではなく、対策である」とコメントし、論争は終わった。

おわりに
 一時期、公害の定義をめぐって論争があったものの、それ以後しばらくお互いの著作に残る形での二人の間の学問上の接点はなかったと思われるが、塩野谷先生がシュンペーター研究に本格的に取り組むようになって道は交差するようになり、塩野谷先生がラスキンの研究に入って以降は、接近方法は違うものの両先生の学問分野は部分的に重なりあうようになったということもできるのではないか。もっとも都留先生はそのことを知らないまま2006年2月5日に亡くなった。塩野谷先生がラスキンについての本格的な研究成果を発表したのは、都留先生の歿後であった。その塩野谷先生も2015年8月25日に亡くなられた。(2016年11月28日)

写真:塩野谷会 吉田先輩から提供
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塩野谷会では、先生が退任後、年2回定期的に懇親コンペ後、イーヴニング・セミナーを開催、先生の講話の後、指名された発表者が演壇に立つという形式で夕食会が行われてきました。

添付スナップは2009年の春開催のもので、前列右から4人目が塩野谷先生、後列左から2人目が須田氏、小生(吉田先輩)は後列右から2人目です