1960年安保闘争とは何だったのか−自己体験の歴史−」
HP管理人、吹田の個人的興味なのですが1960年安保闘争およびその前後に在学していた先輩に、当時の学内・学生の様子をお聞きしたいと思い、大塚武夫先輩に寄稿していただきました。深くお礼申し上げます。
まえがき
令和5年11月、「一橋大學陸上競技部100年記念祭」に参加させて頂きました。私自身部員として誇るべき記録は在りませんが、共に同じく「国立グランドで練習し、記録の向上に努力した同志達との精神交流の会に参画でき、御礼申し上げます。素晴らしい100年祭を企画・推進されたOB役員と現役部員ご努力を賛美いたします。
後日、競技部フォームページを編集・管理頂く方々より、テーマに拘らないから自分の過ごした学生時代の「学生生活と関連する重大事件に関する歴史」に触れる投稿の依頼を頂きました。
思うに昭和後期OB、令和のOB、現役諸兄にとつて昭和30年代の事件を見る目は、わたくしが明治・大正の出来事を感じると同じく位の隔世感があるのではと恐れます。思えば昭和20年4月「国民学校入学」、「今日も学校にゆけるのは兵隊さんのおかげです。お国の為に戦った兵隊さんのおかげです」の環境から、日本帝国開闢以来初めての敗戦「我が国土が連合軍の軍靴で踏みにじられる経験を経て、逞しく復活する日本国の姿を体験し、その時代環境の中で過ごした学生時代の思い出を背負いつつ、後輩OBの方から質問を受けた「1960年安保闘争の姿」に迫れればと願います。
1.自己紹介
昭和13年(1938)生まれ
神奈川県立湘南高校卆 昭和32年(1957)
一橋大学経済学部入学 昭和33年(1958)
荒憲治郎ゼミ・ゼミテン
2.日本敗戦直後の記憶
日本国の敗戦は昭和20年8月15日、昭和天皇陛下の玉音放送を疎開先の山梨県黒駒村「黒駒国民學校」(※現笛吹市)で拝聴しました。玉音音は割れておあり聴取困難でした。しかし周囲の先生方はすすり泣き、よく判らぬが日本は米国に負けたのだ。これから日本はどうなると話す声を脇で聞いいた。
翌日朝、父がトラックで東京から到着、即刻東京に向かう。引っ越し準備の指示を受けた。午後山梨を出発、夕方八王子、立川周辺を通過した時、初めて空襲の焼け跡やバラツク造りの家を見て驚愕した。周りに見える人々は真っ黒な服装で、遠目には虫が蠢いている感じで、とても人間の姿とは感じられなかった。
兎も角、戦火を免れた世田谷区東北沢駅近の祖父の家にたどり着け、安堵の胸をなで降ろした。細やかな戦争体験であります。「国は戦争に負けてはならない」「戦争の庶民生活に与える悲惨さ」は、心のトラウマとして深く刻まれた。この光景は後々高校漢文の時間「杜甫「春望」や又芭蕉「強者どもの夢の跡」等に触れた際、生々しい記憶として蘇ってきた。
3.大学生活の回顧
3.1 社会経済面
1959(昭和34)年一橋大学経済学部入学、小平での教養学部での生活が始まった。幸か不幸か「朝鮮戦争特需」を契機に日本経済は目覚ましい復興を遂げ1954(昭和29)年ごろより、目覚ましい「神武景気」が始まった。
日本国も国連参加を許され、国際社会へ復帰し、かっては高値の花であった冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ所謂『白物3種』や電気炊飯器が登場し、大量消費生活が開幕した。前期小平の生活も平穏無事、生活上の問題はほとんど感じられなかつた。しかし昭和36年春闘終了を契機に物価の跳ね上がり経験、驚かされた。かつての最安価食品ラーメン1杯が30円から40円に、床屋の散髪料金が150円から250円に引き上げられた。荒憲治郎先生によると
「所得配標準化の経済現象である。今まで低賃金を強いられてきた低賃金層へ、上位所得層から所得移動現象が出た。社会全体としての消費率拡大に繋がり、全国民所得が拡大する効果は大きい」との説明を受けた。「巷の物価上昇を容認する大きな気持ちが持てた」記憶がある。
3.2 社会・文化面「時代の旗手−石原慎太郎先輩―」
1956(昭和31)年、我等高校石原慎太郎先輩が第34回芥川賞を受賞(※受賞作:太陽の季節、この時石原慎太郎は在学中)し世に勇名を轟かし、時代の旗手として姿を現した。
人格的な問題で好き嫌いは別に、石原先輩の行動力には尊敬と憧れを抱いた。単に小説・文芸の世界に留まらず、政治活動にも活動を展開し、日本国境を飛び越え、フランスの「ニューベルバーグ派」へも強い影響を与えたと聞く。我等後輩たちにも強い刺激と勇気を与えた。
3.3 分断国家日本
占領国の日本へ与えた「民主主義思想」は「思想・行動の自由」を説いたが、日本国独特の「共同社会構想」をぶち壊す目的が、押し隠されていた。
日本民族が国家開闢以来、堅持してきた「和の民主主義」を根底から破壊する「捻じ曲げられた民主思想」を政治機構の中に埋め込まれてきた。
このままでは日本文化継承・擁護しようとする「国体擁護保守主義」と「左翼唯物史観推進勢力」とは妥協点到達は困難と思えてならない。
3.4 55年体制(保守勢力と左派改革勢力の対決形態)
@ 1955.10.13 日本社会党(社会党右派と左派統一)
A 1955,11 自由民主党立党
* 話し合いによる合意困難。裏金取引による裏談合体制蔓延。
昨今の「政治資金透明化問題」はこの時点で既に芽生えていた。
4.60年(昭和35年)安保闘争
4.1 60年安保闘争 終段の流れ
アイゼンハワー大統領は6月19日に訪日、新日米安全保障条約調印予定だった
〇 6月10日 ハガーティ大統領秘書官事前打合来日
(羽田空港で、学生、労働組合員デモ隊に包囲され、米軍ヘリ部隊出動救済)
〇 6月15日夕刻 学生デモ隊国会乱入
総理大臣命令:侵入全学連学生、全労連組合員、新劇会議員等逮捕命令
負傷学生約300名、逮捕者約200人、 警察官負傷300名。
国会乱入 東京大学女子学生1名死亡(転倒・圧迫死)
〇 6月16日 岸首相記者会見 「大統領訪日延期発表」
〇 6月19日 改訂日米安全条約 正式調印。条約成立
〇 7月14日 岸内閣総辞職 池田隼人新総理組閣
(※上記を含む一連の安保闘争の様子⇒ここをクリック-別windowでYoutubeを開きます)
4,2 時代の生んだ若き左翼闘士達
4.2.1 清水丈夫 全学連書記長
(詳細は清水丈夫のwikipedia参照⇒ここをクリック-別windowで開きます)
1937年昭和12年生まれ。湘南高校時代はラクビー部所属。
高校時代のあだ名は「シミタレ」=「しみったれ?」友達と会食や京都修学旅行でも支払いは一切しないと高校同期の先輩から噂を聞いたことがある。東京大学経済学部入部と同時に共産党入党したが、武装闘争放棄に反発し、友人と語らい「共産主義者同盟(通称ブント)」を結成した(1959)。
1959年全学連書記長に就任、全国145大学を傘下に置く学生運動家の頂点を究め、1960年安保闘争では最大活動勢力の最高指揮官となり、60年安保闘争の先頭に躍り出てきた。
4.2.2 1960年6月15日国会の東門破壊国会突入計画
全学連首脳部は国会正門の破戒し、デモ隊の国会乱入を謀り機動隊と衝突。
機動隊とデモ隊の衝突とにより、負傷学生約300名、逮捕者約200人、警察官負傷300名。デモ隊に参加した東京大学樺美智子女史の死亡事故に反発した警察関係自動車への焼き討ちがあちこちで起こるなど社会安定が脅かされる状況に陥つたが、翌日午前中には治安も通常に回復した。
4.2.3 「公共物破壊、侵入」による責任者の追及
全学連清水丈夫書記長は、最高責任者として指名手配犯とし逮捕状が発令追及が開始された。逮捕者の中にプンドクの幹部も含まれるものの最高責任者清水書記長は、逮捕を免れ潜伏した。収集情報の分析により又内定を含め東京大学駒場寮に潜伏が浮かび上がり、大学に対し警察から「犯人引き渡し要求」が出された。大学側を全寮代表の学生とも協議「大学の自治」の観点から引き渡しを拒否した。
検察側も断固逮捕の方針で「駒場寮立入犯人逮捕」を宣言し、猶予期間を予告した。清水書記長は「強制調査は学友・同志諸兄への迷惑を回避すべく、自ら警視庁に出頭する」と宣言、駒場寮入口に出向き自主的逮捕」となり、観衆の応援の歓声の中で自主逮捕劇の大舞台が展開された。
左翼側はこれら一連の衝突を「革新勢力」の勝利と評論した。
5.「60年安保闘争」に纏わる諸々の出来事
5.1 ライシャワー博士との「愛国論争」
1960年7月、米国政府は日本の左翼勢力の反米姿勢の強さに驚きハーバード大学ライシャワー博士を日本駐在米国大使任命を内定した。就任前に日本関係部署、大学等を事前訪問し、日本の国情を把握する計画を実行した。一橋大学も調査対象校に選ばれ、国立校舎内で博士と学生との対話集会が持たれた。博士の30分程度の講話の後質問時間が設けられ、挙手し質問を行う機会が与えられた。
〇 大塚質問
@ 戦後米国指導による「民主主義教育」が行われた。
A 今回の安全保障条約等イデオロギーのベースが異なる。政党同士が、自己主張に徹すると、合意点得られない。
B 米国式話合精神で纏まらない場合、如何するのか? 行き着くところ「共通の愛国の情」が欠けた場合、国の基本にかかわる事項は纏まり切れないのでは?
〇 博士回答
@ 国政の大事の決断は「愛国心」であることは認める。
A 米国の「自由と民主主義は」与えられたものでなく、自分達で勝ち取ったものである。
B 米国民の国家に対する忠誠心は『米国国歌』の中に収斂されており、子供の頃から叩き込まれている。何か事あるごとに建国の基本精神に立ち戻れる。(※米国国歌『星条旗』の歌詞参照⇒ここをクリック-別windowでwikipediaを開きます)
「Thank you」で会話は終わったが、「俺たちの大和魂どうしてくれる?」との米国の日本占領政策に疑念は残った。
※大塚先輩によると、大学内の掲示板にハーバード大学よりライシャワー博士来訪のお知らせがあった。出席は全く任意、事前申し込み等も全く無し。当日校舎内教室に20-30名が集合、上述の通りまず博士が30分程度講和、その後質疑応答だったが質問した学生は大塚先輩を含めて数名、15-20分程度であっさり終わってしまったとのこと
5.2 1960年夏休み「安保騒動反省帰郷報告会」=先輩からの[喝]
夏休み大学生は故郷に帰る。学生自治会を通じて帰郷し母校等の組織等に呼び掛け、今回の60年安保とは何であったか?」伝え、ことの成り行きを多くの方に伝え、国民運動を展開したいとの呼び掛けが行われた。私自身別に工作をした訳でないが高校の友人より呼び掛けがあり、出席した。高校卒業生会の手配もあり江藤淳、石原慎太郎両大先輩が参加頂けるとのことであり喜んで、「イザ鎌倉」と馳せ参じた。
夏の暑い日で、蝉の声もうるさい昼下がり、学生30人程度の前に大先輩が現れた。
いきなり冒頭、先輩方手はうるさ型の噂高い江藤先輩より一喝が降ろされた。
江藤先輩発言
@ 「何が安保反対だ。君らの中で改定条文を目を通した者は居るのか?」・・・「はい読んだ」との回答はゼロ
A 「安保反対なら その理由を行ってみろ!!」・・・・安保は軍事協定。憲法違反では?
B 「バカ? 知らざあ言って聞かせやしょう」(弁天小僧 白波5人男連想)
こんこんと連合国占領下で造られた旧安保協定の不平等さや日本が侵略されても米国は日本防衛の責任がない等問題点を厳しくご指導願えた。後輩一同は一方的に責め巻かれ立ち往生
石原慎太郎先輩の「小喝」な発言
@ 江藤先輩の発言を受けて「お前らもっと勉強しろ。」
「不平等条約は明らかであり、今回改善点も充分ではない」
「これから将来に向かって米国とつき合わねばならぬ。相手の勝手な言い分を抑えるためには、今回の様に不合理な要求事には日本の国論が強く反対の意思表示をする事を相手に示せたことは良かった」と多少の慰めの言葉掛けてくれた。「Noと言える日本」を後々強く打ち出す覚悟の片鱗を見せた。我々ぼこぼこにされた後輩達にも多少の励ましをくれた。
6.「60年安保争」に対する自己反省(大塚「独断と偏見?」)
6.1 大学の先生方からの教え
6.1.1 荒憲治郎先生から頂いた教訓
60年安保騒動に驚き、蠢く我々に対し「騒ぐな、慌てるな。物事には必ず表と裏の2面がある。確り事象を見つめよう。そして事の良否は自分で考え行動しよう」
6.1.2 都留先生の示唆
「今後の日本の発展を考える時、米国との友好関係は基本だ。
これを忘れたら日本は又後悔を繰り返す。基本に立ち返れ。」
6.2 「社会風潮の左翼勢力の跋扈」(大塚私感
戦後の日本は「民主主義のスローガン、「何でも自由」の風潮が支配する社会構造が生まれてきた。戦前抑圧された左翼思想家達はここぞとばかり、弁証法的唯物史観にかぶれ
原始共産制→古代奴隷制→封建社会→資本主義社会→共産主義社会
を夢想し、さながら言論界は弁論大会の様相が生まれ、それに便乗したマスコミ(左翼思想の記者&編集陣)。さらに加えて労働組合、日教組全学連等の左翼学生運動の大波に押し流される社会環境が生じていた。
6.3 日本保守政治家の油断と失敗
60年安保問題」を「国民に伝える広報作戦の不足
「安保改正の絶対的必要性を国民に知らしめる努力」は皆無に等しかった。一方左翼勢力は新聞・雑紙等紙媒体、マスコミ(ラジオ、テレビ等)、左翼評論家の反対意見の出版等、オール左翼は「宣伝戦圧勝」100vs0のスコアー。
幼き安倍晋三幼稚園生ですら「安保反対の畳上行進」を祖父岸信介首相の前で演じるなど、笑うに笑えない事態に至っていた。
「安保改正反対の大嵐の渦中にあって、岸信介首相は「騒いでいるのは一部国民に過ぎない。後楽園を見ろ、野球場は人が一杯である」との発言は自分の認識不足を暴露したものであり大きな怒りの国民感情を巻き起こした。清水丈夫全学連書記長にこの隙を突かれ、大惨事を引き起こされた。
7.日本経済の成長と社会的安定、それに比例して極左勢力の後退
7.1 池田内閣「所得倍増計画」の実施により日本経済は大躍進
60年安保戦士たちも大学を卒業し社会人へと羽ばたいていった。大学を離れ「一般世間の一員」に変わり過激思想から一歩身を引く皆いっぱしの「企業戦士」と生まれ変わり日本経済成長に貢献する。
70年安保闘争は未だ過激組織の実在を示す事件は生み出すも社会風潮は「一億総庶民化」へと「生活水準の平準化」が広がる安定社会へ進んでいった。
7.2 Japan as No.1
1960年〜1970年 日本経済の高度成長とその「日本的経営」は日本特有の経済・社会制度を再評価が下された素晴らしい時代であり、世界に胸を張れる時代であった。
あの輝きは2024年に又思い出し、今一度「誇りを持てる日本」再建を期待したい。それは日本人自身が自ら作り上げる精神を思い出し、実行せねばならぬ。若き日本人の能力と実行力を強く期待する。
以上
(参考資料) 第2次安保闘争 - 70年安保闘争と極左暴力集団の尖(せん)鋭化
(1) 極左暴力集団は、ベトナム戦争を契機とした反戦・反米気運や学園紛争から生じた反体制ムードの高まりを背景に、1970年の日米安全保障条約の改定に照準を合わせ、過激な70年安保闘争を展開した。第一次羽田事件(1967年)、新宿騒擾事件(1968年)、4・28沖縄闘争(1969年)等の集団武装闘争が連続的に繰り広げられ、学園紛争や成田闘争等とあいまって、政治や社会の現状に不満を抱く学生や労働者を巻き込み、大規模なものとなった。
1970年に日米安全保障条約が自動継続となって以降、その活動は次第に尖(せん)鋭化していった。武装闘争は、警視庁警務部長宅爆破殺人事件(19716年)、あさま山荘事件、テルアビブ・ロッド空港事件(1972年)、三菱重工ビル爆破事件(1974年)と際限なく過激化し、多数の死者を伴う集団内部の抗争も繰り返されたが、その過激さから、それまで同調してきた学生や労働者の支持は急速に失われ、極左暴力集団は社会的に孤立していった。
こうした中、49年春闘では、官公労を中心に「賃金の大幅引上げ」、「スト権奪還」等をスローガンに波状的な闘争が取り組まれ、日教組4・11地方公務員法違反事件のような官公労働者の違法ストや労働組合の組織対立をめぐる労働事件が多発した。
一方、右翼は、安保闘争の高揚や、1970年の日本共産党の民主連合政府構想等に刺激され、宮本日本共産党委員長襲撃事件(48年)等を引き起こした。また、三島事件(※1970年、作家の三島由紀夫が市ヶ谷の防衛省で憲法改正のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件)を契機として、反米・反体制を主張する「新右翼」も誕生した。
(2)
以前の条約は、アメリカの対日防衛義務を明記しないまま、アメリカに軍事基地を提供していた。したがってある視点からすれば、日本の自主性を一定程度回復するものであった。
(3)
これに関して西部邁は1986年になって、『60年安保センチメンタルジャーニー』でブントの視点は、「対米従属」「民族独立」という方針と、日本の中立化を求める社会党や共産党の方針と違い、戦後民主主義の理念、特に「平和」と「民主主義」そのものの前提を疑おうとしたものであったと述べる。
同時代的にはブント同伴知識人第二号となった吉本隆明の「戦後世代の政治思想」参照。
『中央公論』1960.1→『吉本隆明著作集13(政治評論集)』勁草書房.1978 および『擬制の終焉』『吉本隆明著作集13(政治評論集)』勁草書房.1978 吉本は『中央公論』1960年4月号において、島成郎らと『トロツキストとよばれても』という対談を行っている。
注) 西部暹氏は1960年安保闘争では反対運動にまい進したが、同年の逮捕・釈放後、左翼の運動方針に反対の立場を離れ、清水丈夫グループから袂を別った「転向組」。
※はHP管理人、吹田が挿入しました