思いつくままに(さらに続き)  吉田 良造 昭和42(1967)年卒

 さらに吉田さんより当時のお話と写真を頂きましたので紹介します。

 都留先生の関係自伝に関連し、田島先生について。
昨春、かなりの量のスナップを整理していたところ、田島先生のものもあり、添付の通り、「都留先生ご夫妻と田島先生」としてまとめました。これは昭和41(1966)年秋のOB戦風景、同時期の都留先生宅での懇親会風景であろうと思います。このスナップは田島先生ご子息・泰次君(S50卒)に送ろうと岩瀬君に託した記憶があります。
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国立グラウンド 100mスタート付近。中央やや右のスーツ姿が田島先生

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国立グラウンド ゴール、部室前
分かる範囲で、左から青木(立姿、42)、故堀(座、44)、故天野(座、39)、北浦(座、41)、山本(座、44)、徳田(座、41)、後藤(座、44)、都留先生ご夫妻、立っている白いユニフォーム姿は故松永(34) 数字は昭和卒年

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赤坂新坂町の都留先生宅にて

 昭和41年、都留先生の指示で当時主将であった青木氏と代々木の岸記念体育館に田島先生にご挨拶に行きました。私は、かつての金メダリストにお会いするということで、かなりの緊張感で先生にお会いしたところ、温厚な笑顔で迎えられ、暖かく接していただき、緊張感が和らいだ記憶があります。

 田島先生は、1990年末にお亡くなりになり、翌1月、私は葉山にある会社の研修所で研修があり、その途上、大船の先生宅に弔問に訪れました。アポなしでしたので、門扉で訪問の趣旨を伝え、中に招じ入れられました。玄関の戸を開けますと、「やあ、吉田君ではないか」との声に私は驚かされました。声の主は、数年前まで島根の工場で苦楽を共にした製造課長で、訪れた当時はすでに静岡大学の教授に転ぜられていました。

 実は、その奥さんが旧姓田島姓で田島先生の姪御だったのです。私は仏壇で供花・焼香した後、失礼しましたが、帰り際、田島先生の奥様が「このたび岩国市の名誉市民に叙せられました。大変光栄なことです。」とのお話を背にお宅を後にしたことがありました。

以上

管理人(吹田)追記:
田島直人さんは1936年のベルリンオリンピックでの三段跳び優勝(しかも16m00の世界新記録!)が有名ですが、この時同時に走幅跳びでも3位銅メダルを獲得しています。あの4冠ジェシー・オーエンス(USA)、ルッツ・ロング(ドイツ)と一緒に戦ったのですね。レニー・リーフェンシュタールの記録映画(オリンピア)でもこの2人の熱戦を見ることができます。もちろん田島さんと3段跳びのシーンもあります。

この映画オリンピアは全編、youtubeで見ることができるので、Leni Riefenstahl Olympiaで検索してみてください。田島さんの、表彰式で月桂冠を戴くシーンがあります。しかもドアップ。その後が幅跳びのシーン。そこでもチラッと日本人?が映るのですがメガネなので田島さんではないかも。
1936年ベルリン五輪・陸上走り幅跳び(wiki pageのlink)

3段跳びの詳細記録はこちら
1936年ベルリン五輪・陸上三段跳び(wiki pageのlink)

2位銀メダルも日本人でした。原田正夫さんですがこの方は京都大学で田島直人さんと同期です。上述の映画ではなぜか、原田さんの跳躍シーンが無く、大島さんが登場します(6位)
吉田さんが触れている、田島直人さんの奥様について:旧姓、土倉麻さんと言って1932年、つまりベルリン大会の前のロサンゼルス大会で女子100mと4x100mに出ている方です。田島さんは1932年にも幅跳びの選手として出ております(6位)。つまりその時同じ選手団として出会っていました。お二人はベルリン・オリンピック後の1936年に結婚されます。当時、日本初のオリンピック代表選手同士の結婚として話題になったそうです。 田島さんは1990年12月、麻さんは2008年8月にお亡くなりになりました。
土倉麻さんの・オリンピックでの記録
100m 予選4組4位 12"9 で準決勝進出はならず
4x100m 5位 48"9 (一発決勝)