思いつくままに(続き)  吉田 良造 昭和42(1967)年卒

 その後吉田さんよりいくつか、当時の資料をご提供いただきましたので新たに No 91 としてHP管理人(吹田)が当ページを作成しました。文字をクリックすると画像がでます。

1. 吉田さんは1964年東京オリンピックの陸上競技最終日(10月21日)、国立競技場で観戦されています。
その時のチケット
漆山さんより「幻」と化した東京2020のe-ticketと比較したイメージを頂きましたので載せます。漆山さんは200,800mの決勝がある8月4日、国立競技場のチケットに当選していたのですが・・振り返ってみればあの時期が「日本人の感染」のピークでした。
1964 vs 2020 Tokyo 比較 (pdfですので拡大して御覧ください)

2. オリンピック陸上競技には当時、わが一橋大学陸上部、最初期の先輩たちが名を連ねていました。
その時の大会役員名簿
- 日本陸連、副会長のところに水上達三先輩(この時、三井物産社長。のち会長)
水上さんの経歴(wiki pageのlink)

- 競技運営役員の、経理局総務として、尾本信平先輩(この時三井金属副社長、のち社長)。日本陸連の財務体質の改善に貢献されました。
尾本さんの経歴(wiki pageのlink)

その他、有名人がちらほらいます
- 陸連会長、春日弘は東大陸上部出身、日本陸連を設立した人。東京オリンピック組織委員会委員長
- 陸連福会長、河野謙三 早稲田大陸上部出身。政治家。自民党の河野太郎からみて大叔父(祖父、河野一郎の弟)
- 陸連副会長、五島昇 東急創設者、五島慶太の息子
- 運営役員総長、青木半治 早稲田大陸上部出身。後の日本陸連会長を長く務める。筆者が現役だった1980年代末、関東学連の会長でもあったと記憶。
- 審判 西田周平 早稲田大陸上部。1936年ベルリンオリンピック、棒高跳びで銀メダル。3位の大江季雄と銀・銅メダルを分割しつなぎ合わせた「友情のメダル」で有名(なお大江は慶応大、1941年戦死)。

3. アベベ、ヒートリー、円谷、君原選手の話
 1964年東京オリンピックのマラソンはすでにIOCによって著作権フリーで公開されているようです。
Tokyo 1964 Olympic Marathon Youtube

 撮影はNHKか、記録映画を担当した市川崑のチームだと思われます。今では当たり前の移動中継車はこのとき初めて導入されました。ただ、台数は限られていて、アベベ以外はほぼ固定カメラの映像。コースは甲州街道。1964年の東京が懐かしい。筆者(1965年生)が子供の頃まではギリ、こんな町並みでした。

 円谷はこの時、自己ベストを2分くらい更新して3位、銅メダルを獲得するのです。この時日本選手は3人出場していていますが円谷は3番手でしたから、大健闘と言えます。君原はこの時8位。自己記録では一番だった寺沢は15位だったのですから。しかし大健闘3位の栄誉より「競技場で抜かれて3位に落ちた」という衝撃的な結果・映像が後の彼の悲劇につながってしまいました。実際本人もレース直後、銅メダルの喜びより「国民の前で抜かれて申し訳ない」と落ち込んでいたと君原が証言しています。この時2位のヒートリーは出場選手の中で世界記録保持者ですから、十分実力通りだったのですが。。なおこの大会でアベベが世界記録を更新しています。

 君原の日本経済新聞連載の「私の履歴書」での、円谷選手に関する証言
その1
その2
 君原は4年後のメキシコ五輪で前回の無念を晴らす銀メダルを獲得しますが、その喜びを感じられなかったと述べています。円谷を救えなかった後悔があり、以降今に至るまで、円谷の墓参を毎年続けています。

 円谷の悲劇、自衛隊体育学校の当時の愚かさはスポーツマネジメント、コーチングの最悪の失敗例として忘れてはいけないと思います。自死までの経緯は円谷の wiki pageや君原の証言が youtube にありますので、検索してみてください。
 アベベその後:1968年メキシコ大会に出るも途中棄権。しかし同僚のマモ・ウォルデ選手が優勝、金メダル(ウォルデは1972年のミュンヘン大会で銅メダル)。1969年交通事故で下半身不随に。車椅子アーチェリーに取り組むも1973年、死去(41歳)。事故の後遺症と思われる。翌1974年エチオピア革命で王政廃止。その後エチオピアは約15年、政治抗争・内戦状態に陥る。

 ヒートリーその後:東京オリンピックをもって引退。その後故郷で働きつつ、地元スポーツ支援に尽くす。2014年、東京オリンピック50周年イベントで来日。円谷の親族に面会。2020年の東京オリンピックに来たいと言っていたが2019年死去(85歳)。

ps. 敬称は略させていただきました。