思いつくままに 吉田 良造 昭和42(1967)年卒
1 有志によるZOOM形式のオンライン会合
昨年(2000年)初来の新型コロナ禍で事実上、自宅待機が課され、不急不要の外出は自粛という状態が1年10か月になろうとしている中、漆山浩一先輩(1964卒)から残暑お見舞いをいただき、漆山先輩が音頭をとる形で有志によるオンライン会合を行おうとの提起がありました。超アナログ派を自認する私ですが、長距離班キャップの指示は絶大、不承不承ながらお受けすることとし、漆山先輩による事前の個別指導よろしきもあって、本番を迎えることができました。
本番は、9月15日午後3時から5時までの2時間、40分間隔の3セッションで行われました。メンバーは、山田紘一(64卒)、細井哲男(66卒)、中山信正(66卒)、青木俊樹(67卒)、鈴川準二(67卒)各氏が加わる計7名によるものでした。街ですれ違っても見逃すような面持ちの方もおられましたが、時間が経過するにつれ、往時を思い起こさせるのは同じ釜の飯を食った仲間だったからでしょう。海外旅行のスナップを紹介される方もおり、超ドメスティックな私には幾分の置いてきぼり劣等感さえ覚える場面もありました。初めてということもあり、デスクトップ上から画面が消えたりとスムーズにいかないところもありましたが、2時間はあっという間に過ぎ、次回会合開催の意思確認の後、オンライン会合の幕は閉じられました。
対面での会合に制約のある中、こうした取り組みも意義あるものと感じた次第です。他の年次の方々も積極的にチャレンジされては如何。
2 岡本行夫君のこと
昨春惜しくも他界した岡本行夫君は入学年次が私より1年後輩で、彼が入学後、陸上部に所属、長距離としてグラウンドを一緒に走った記憶があります。その後、彼は退部。卒後、外務省に入り、山崎隆一郎君(1967卒)の後を追う形で北米一課長を歴任する等将来を嘱望されていました。彼は、外務省を中途で退官、在野での外交コンサルタントに転身し、骨太でユニークな評論活動をしていたことはご存知の通りです。社会人となった私は、彼との出会いについての記憶は全くといっていいほど、忘却の彼方にありました。
昨年初、我が家の階段下物置からゴッソとかなり多量の過去のスナップがでてきて、我が部の物もかなりあり、その中から、彼と一緒のスナップもあり、それをまとめたものが下記のスナップで、1964年7月に神戸・王子競技場で行われた旧三商大戦時のものです。
2006年2月、都留先生が亡くなられ、翌年、後を追われるようにして、奥様も亡くなられ、倶楽部を代表する形で、水野晴夫・遠藤恒夫両君と三人で四谷菩提寺での葬儀・告別式に参列しました。式終了直前に会場にベートーベンのヴァイオリン・ソナタ「春」第一楽章の録音が流されました。ヴァイオリン演奏は佐藤陽子女史、ピアノ伴奏は奥様でした。その佐藤女史は一時、岡本君と婚姻関係にあり、倶楽部を通して何か赤い糸で結ばれたのでしょうか。
同期生と談笑する岡本君(左端)
大会終了後、優勝カップを囲んで(後列左から5番目が岡本君)[旧三商大戦、1964.7神戸王子競技場にて]
3 「俺はオリンピックの出場選手であるぞ」の巻
ほぼ半世紀前の東京オリンピックは、私が2学年次の秋の開催で、前年秋に旧国立競技場で前売りが始まり、販売日の前日夜、日月雅昭先輩(1966卒)、同期の織田邦利君等と徹夜の行列で並び、入場券を手に入れました。一人2枚で、私は、陸上競技最終日のチケットを入手しました。
翌年秋、私は母を連れて、国立競技場のゴール付近の上段の席に座りました。最終日はマラソンがメイン、その他1500メートル決勝があり、ピーター・スネルの圧倒的な走りは衝撃的でした。マラソンが始まって、2時間後、場内アナウサーの「只今アベベ君が一着で入場門に入ってまいります。」との放送に、数万人の観衆の騒めきは一瞬にして消え、しわぶき一つなく、全員の目が一点に集中、静寂そのものの場が出現。数万人の観衆の中でのあの静寂さはこの世のものとも思えず、入場門にアベベが姿を現すや、興奮は最高潮に達し、何とも言えない声が渦巻きました。静寂から喧噪を一瞬のうちに体験できる瞬間でした。
続いて、完全にバテ気味の走りで円谷選手が入り、さらには、英国のヒートリー選手、その差は30メートル位で、その力強い走りは、円谷選手の比ではなく、ご存知の通り、第三コーナーで抜かれました。母は、錬金術師が一瞬にして銀を銅に変える現場を目の当たりにし、その衝撃は冷めやらず、強く潜在意識として残ったのでしょう。母は、百歳の天寿を全うしましたが、私が後年、病床の母を見舞ったあるとき、「良造、あのときは大変だったね、あんた、アベベに負けて。」と、家内ともどもインド人夫妻もびっくりでありました。
かくして、私はその瞬間に母親公認のオリンピック出場選手となったのでした。