「色彩を持たない私の巡礼の年」 ・・鈴木 貞一(1965年入学)


国立のグランドが全天候化され、そのお披露目の三商大戦。応援とリレーのオープン参加のために 鈴木貞一さん 大阪から久しぶりに国立へ行った。この歳で、再び国立のグランドで走れるとは思ってもいなかったことだし、今後のことを思えば、母校のグランドでのラストランになりそうで感慨深いものがあった。

その前日、立川市内のホテルに泊まったが、あの立川がと思う位、駅前の大変貌に驚かされた。 昭和40年頃は立川基地があり、駅前での機動隊とデモ隊の激しい衝突、毎晩ベトナムを行き来する何分か置きの輸送機の轟音、当時は、まだ戦後の名残りと冷戦の余波が日常的に身の回りにあった時代。下宿で毎晩聞かされた轟音だが慣れてしまえば、睡眠にそれ程支障にはならなかった。

国立北口から歩いて30分ほどの高校教師のお宅に4年間下宿していた。 国立駅に近いといっても、住所は国分寺市の富士本三丁目で、途中の道の両脇には新興の一戸建ての住宅と、造園業の緑地や畑が散在し、狭い道路が住宅の進出に合わせて造られていくので複雑な町並みになり、武蔵野の面影を残す鬱蒼とした樹木が所々に点在しているため、外部の人間には極めて分かりにくい地形になっていた。 卒業年の12月、やたらとパトカーが走りまくり、近所一帯の駐車場に警察が車の確認に来るなど不穏な雰囲気だったのでテレビを点けたら、3億円強盗事件のニュースが流れていた。また近くの八百屋さんに強盗が入り、愛想の良いおじさんが殺された。 凶悪な二つの犯罪、いずれも迷宮入りになっている。

大学の後期課程では国立の母校と下宿を自転車で通う毎日。国立駅から北側を暫く行くと右手に多摩蘭坂がある。自転車を引っ張って上っていくと、宮丸郁子さん(旧制依田、東京五輪80Mハードル5位入賞者)が時々、住宅街の坂道を小刻みなピッチで走っている姿に出会った。東京女子体育大学の監督をされており、国立のグランドに練習に来られていたので面識があり、はきはきとした声でいつも挨拶を頂いた。東京五輪のレースの時のようなピリピリした感じは無くなっていて美人ランナーだった。後年、新聞や週刊誌で亡くなられたことを知った時、信じられなかったし、さびしく思ったものだ。

坂を上がると、左手に折れる道があり、そこから下宿まで歩いて20分。 鈴木貞一さん 途中に、相川君(S46年卒)、宮丸さん、そして、山本さんのお宅があった。 山本陽子さんは当時新人の美人女優で、彼女の両親の家があり、彼女が居られないことは分かっていても、家の前を通る時はもしかしてとドキドキしたものだ。 増加する生徒を収容しきれず、プレハブの臨時校舎もあった小学校の前を通って暫く行くと、右手に折れる小路があり、突きあたりが下宿先。

予想はしていたが、かっての下宿には新しい家が建っており、表札は他の名前で一帯は新しい家に変わっていて、昔の面影は全く残っていなかった。 無理もない。あれから45年も経過しており、世代も変わっているはずだから。 辺りの写真を撮り、元来た道に戻るとバス停があった。この道は拡幅されてバスが通る様になっていた。バス停の名前を確認すると「花街道」。悪くない名前だなと思った。 台風が過ぎた後の蒸し暑さの中で歩いて戻る気力も失せていたのでバスで帰ることに。 待ち時間の間、おばさんと少し立ち話。「学生時代、この辺に下宿していましてね。すっかり変わっていました。」「そうですか、この辺は人の出入りが激しいですからね。私の家も大学の留学生を留めています。中国の精華大学の方です。一橋も外国の留学生が増えて。女子大生も増えましたね。」

さて、この駄文のタイトルは、国分寺で喫茶店を開いていたと言われる村上春樹さんの小説から頂いた。 最後は彼のタッチで締めくくりたい。 バス停で待っている間、何故、思い出の確認のためにわざわざ来たのだろうかと思った。国立駅行きのバスに乗り、今歩いてきた道をもう一度振り返ろうかどうか迷った。    結局、振り返らなかった。もうこれからも振り返らないだろう。

写真説明:(1)三大学戦のOBリレーメンバーの写真 (筆者は、右から5人目)(2)写真をクリックすると、一部拡大写真になります。都留先生、田島先生の 前に座っているのが若かりし筆者。(No.37の再掲)

(7月13日受信)