「横製駅伝30回出場!」・・・・・大鳥羽 裕太郎(1971年入学)
2013年(H25)3月10日(日)、三菱重工業(株)(以下重工)横浜製作所(以下横製)第55回所内駅伝
大会に出場した私は、閉会式の中で横製牧浦所長から、駅伝30回出場表彰を受けました。
1975年(S50)卒業と同時に重工へ入社した私は、横製(当時は横浜造船所で横船)勤労部へ配属と
なり、翌年1月の所内新春駅伝大会出場を皮切りに、横製駅伝を走り続けることになりました。
駅伝大会では2kmから5km程度の工場内コース6区間を、職場や関連会社で組んだチームがたすきを
つなぎます。当日は豚汁やワタアメの露店も出、従業員の家族や工場の近隣の皆様も自由に工場内に
入り、ランナーを応援できる、非常に和気藹々とした大会です。
一橋陸上部で4年間中・長距離パートに所属した私は、それこそ水を得た魚のようにこの横製所内
駅伝大会に馴染み、職場が変わっても、関連会社へ出向しても、まわりの方々にお声がけし、5人の
チームメイトを集め、6人でたすきをつなぎ続けました。駅伝を盛り上げるため、当時はランナーの少な
かった女子社員に声をかけ、初の女子チームを組もうとしましたが、どうしても1人足りません。そこで
新婚ほやほやの家内に懇請し、6人そろえて事なきを得たこともありました。
連続出場記録がとぎれたのは1993年(H5)です。1992年12月にブラジルリオ・デ・ジャネイロの重工
関連会社へ出向することとなった私は、2000年7月までリオ勤務が続き、この8年間横製駅伝不参加を
余儀なくされました。ブラジル時代もランニングは続けており、リオで行われたブラジル空軍主催のフル
マラソン大会にも1回だけ参加しました。マラソン直前の一時帰国の際、当時マラソンを走られていたS
先輩にご相談し、「相当気温が高いようだから、水をよく飲め、そして頭から水をよくかぶれ。」
というアドバイスを遵守し、4時間17分かけて完走(完歩?)したことは忘れられない想い出です。
帰国の翌年の2001年(H13年)から再び横製駅伝に復帰した私は、この後も職場の異動、関連会社への
移籍の都度、チームメイトを開拓したり、アンカーを走ることを条件に親会社のチームに入れて貰ったり
して走り続け、今年(2013年)30回目の出場を果たすことができました。
小学生の頃は小児喘息で学校を休むこともあったひ弱な私が、1975年からの38年間にわたる会社
生活を大きな病気もせずに過ごせたのは、一橋陸上部での4年間の「体育会系」生活と、これを礎にした
横製駅伝のおかげと思い、心から感謝している次第です。
また、来年の横製第56回駅伝では今いる重工の孫会社でメンバーを募り、この会社として初参加すべく
社内のランニング愛好家に声をかけているところです。
一方、三菱系の会社ということで、1974年(S49)雨の一橋国立グランドで第1回大会が行われた、全三菱
陸上競技大会にも何回も参加しています。秋の一日、今の会場である慶應日吉グランドで、諸先輩方にお会いし
親しくお話できるのは、私が一橋陸上部にいられたからこその楽しいひとときです。
今61歳の私が、この先どこまで継続できるかわかりませんが、3月の横製駅伝と10〜11月の全三菱
陸上競技大会を両輪に、まずは手許の1年、1年を走り続けてみようと思っているところです。
(2013年7月25日受信)