遠方の朋・近くの友

「走ること、学ぶこと、登ること」・・・ 柳沢 民雄(1968年入学)


柳沢さん  1968年入学1972年卒業の柳沢です。卒業と同時に教職(高校・英語)に就きあっという間に 38年が過ぎ去りました。それから3年目。現在も週3日間再任用で教鞭を執っています。
 陸上部では短距離パートに属し400Mなどを走っていました。都留先生の別荘を お借りした軽井沢合宿、返還前の沖縄遠征(1970年)、自己ベストが出た 三商大戦(1971年大阪・長居競技場)など懐かしい思い出がたくさんあります。 長距離のメンバーが足りないと箱根駅伝の予選で20キロを走る機会も与えられました。 当時は検見川のロードレースコースで予選が行われ、5キロまでは比較的快調でしたが 後半はバテて歩いているような走り方だったと記憶しています。
 しかし、高校時代の水泳部、大学時代の陸上部での活動はともに長い人生の中で 健康保持のために力を発揮しています。埼玉県北に住んでいますがこの十数年深谷市にある パティオという温水プールでよく泳ぎますし、気楽に家を飛び出してジョギングができるのは陸上部の経験のおかげだと思います。

 以下近年のことを3点記します。

(1)私の健康法〜田島直人コーチから教わったことが今〜

 私たちの現役時代には都留先生、コーチの田島先生からのお話しをうかがうことがよくあり、 また時には「暁の超特急」と言われた吉岡隆徳さん(当時東京女子体育大学教授)がグランドに お見えになりダッシュのタイムを計っていただいたりしました。
 田島コーチはあるとき「ウォーミングアップに必ずしもグランドはいらない、 一坪の広さがあればいい。お風呂に入ることでウォーミングアップになる」という お話をされたことがあります。1968年のメキシコオリンピックで背面跳びを披露した ディック・フォスベリーにも通じるような発想の転換が印象に残っていました。
 どんな小さな場所も工夫次第で大きな運動場になる、というこのお話しが最近になって 私がジョギングをする時のヒントになっています。私のジョギングコースは長い間 自宅を出て舗装道路を走り少し離れた荒川までを往復するというものでした。 若い頃には走った距離をカレンダーに記して年間走行距離を出したりしていました。 しかし梅雨時に限らず雨に降られるのはいやなもので田島コーチの先のお話しが私を 導いたのは近所の神社でした。神社は鬱蒼とした杉林におおわれており、 境内をグルグル回ることでちょっとした雨では濡れないことがわかりました。 年を重ねた私のジョギングには必ずしも長い距離は必要ではないことがわかったのです。。 録音しておいた文化講演会などのテープ、MD、mp3を聴きながら40分ほど走ることが楽しみになりました。 冬場は登山用のヘッドランプなどを付けて走りましたが時に木の根に足を取られたりします。
 そのうちに雨が続いて神社にも行けない日が続いたことを契機にして新しいシューズを 買い込んできて娘2人が嫁に行って空いたままの自宅の2階を走るようになりました。 2人の娘の部屋は2つの部屋の引き戸を開放すると長さが12mほどになります。 往復24m。150〜200往復位でしょうか、ゆっくり身体を温めながら40分ほどで走ります。 階下の連れ合いに最初はうるさい、と苦言を呈されましたが最近は容認状態をかちとっています。 視力低下の昨今、ラジオやテープなど耳からの情報入力が相対的に大きくなってきました。 最近の発見ではVOAがSpecial Englishという英語のMP3 FilesをText付きで提供していることを 知りました。特に"PEOPLE IN AMERICA"というコーナーでは265人の人々の伝記を実にゆっくりした 平易な英語でそれぞれ15分にまとめています。アフリカンアメリカンの公民権確立に寄与した W.E.B. Du Bois博士のファイルなど興味深いものを聴きながら楽しんで走っています。

(2)38年ぶりに母校に通ってみて

 2010年3月の定年退職のあと、4月から母校の社会学研究科修士課程に「入院」しました。 さびついた知識と問題意識のリハビリをもくろんでのことです。一橋大学の大学院入試は 秋季(9月)と春季(2月)にあり、私は秋季入試の社会人特別選考から総合社会科学専攻コースに入学しました。 社会人枠は社会人として3年以上の経験と学部卒から3年以上経っていることが条件のようで、 インターネットで入試実施状況が公表されています。定年退職後も週3日再任用で勤務する予定だったので 社会人入試の受験資格があったのです。一次試験は書類審査、二次試験は口頭試問と外国語の試験でした。 2009年9月の二次試験の日にまず足を向けたのはいうまでもなく懐かしいグランドでした。
 4月に入学した後も食堂外のベンチでグランドを眺めながら食事を取ることが度々ありました。 大きなストライドで走る現役選手に声をかけ、OBだと打ち明けると最敬礼されかえって恐縮しましたが ラッシュ君と自己紹介され、あとで短距離の素晴らしい選手だと知りました。あるときは懐かしい 後ろ姿に追いかけて行ってみるとやはり浜田さん、グランドに顔を出してみたとのことで昼休みの 短い時間でしたが昔話をしました。学食の中で現役学生の皆さんと談笑しているのは池田さん、 後輩の指導をされていることをありがたく思いました。駅から大学に向かう途中でグランド改修の 事業での要請で見えたという青木さん、岩瀬さんともお会いしたことがあります。
 大学院の授業では2年間の取得必要単位が30単位以上。私は二つのゼミに出ていましたから一年で8単位。 2年で16単位。つまりゼミが単位の半分。あとは一般科目でしたが週3日は勤務があったのでこれで精一杯でした。 2年次に年間4回、修論進展状況のプレゼンの場であるリサーチワークに参加が義務づけられましたが、 そこで陸上部出身の鈴木颯太さんの戦時期の女性スポーツに関するプレゼンもお聞きしました。 博士課程に進まれたと聞いていますが学問の大成を願っています。
 2年という短い間に東日本大震災を経験しながら、2012年正月になんとか論文執筆完了、 しかし3月にはノーベル賞級の研究者を迎えるという「一橋大学21世紀COEプログラム」 (2004年にはアマルティア・セン教授を招聘している)で私の属する中田ゼミが中心となりドイツから ユルゲン・シュリーヴァー博士(比較教育学)を招待する事業が待っていました。博士の講演会に坂田さんが出席してくれたことは嬉しいことでした。
 主ゼミの指導教官中田康彦教授は私が1期生として入った藤岡貞彦ゼミの20年近い後輩にあたります。 ゼミに参加する博士課程の研究者は私の娘よりかなり若い人ばかりでした。シャープな彼ら彼女らの論議に ついていくのは大変でしたが、長く教職の経験を重ねた者として大切にされたように思います。 それでも年齢の点で言えば私の周りには5歳年上でロシア・中央アジア研究をしている元商社マン、 本学の商学部卒で会社経営もされた9歳年上の先輩もいました。70歳を越す彼がギリシャ語に取り組む様子は刺激的でした。 学生の出身大学も多様でバイリンガルの若者も多く、中韓だけでなくロシア、モンゴル、カザフ、イランなど留学生とも多く接することができました。
 退職時期の近い方は母校で学び直す可能性も追求していただければと思います。

(3)山登りの魅力を知って15年

 もう一つ、山登りのことを少し記します。1970年前後の陸上部時代に登ったのは浅間山と蓼科山でした。 柳沢さん その頃は苦しいとしか思わなかった登山を本格的に始めたのは1997年、47歳の年に、折からの台風8号の直撃を受けながら登った 金峰山山行がきっかけでした。英語教育の研究会仲間に誘われて登山のイロハを教わりました。
 それからの15年間、連れ合いを巻き込みながら山登りは私の生活の大きな柱となりました。手元の山行記録を見ると、 年平均5〜10座、最多の2004年には(低山を含め)36回の山行、43座に登っています。若い頃はどちらかといえば 山より海に魅力を感じていた私をこのように山に向かわせたものは何だろう、と考えることがあります。 まず健康保持は動機としてあるでしょう。40代に血圧問題が浮上、友人の「駅の階段をみたらむらむらっとしなければ」 という発言に刺戟され、山から帰ると元気になる実感はフィトンチッド (phytoncide)による森林浴効果だと確信しました。 新英研という研究会の仲間でSMC(=Shin-eiken Mountaineering Club)なるあやしい?組織をでっちあげ山登りと 下山後の交流を楽しみました。こうした人々との交流も山登りの大きな動機だと思います。
 山行の頻度を増すうえで、退職まで7年を残し2003年に異動した工業高校で山岳部顧問となったことも大きいと思います。 赴任の日に以前から知り合いであった国語教師がすっと近寄って「一緒に山岳部顧問をやりませんか」と誘ってくれました。 ありがたいことでした。生徒と週3回ほど近くの川沿いを走り低山に登りました。何事にも自信のない生徒たちが佐渡の 金北山(1172m)や谷川岳(1977m)、日光白根山(2578m)や赤岳(2899m:写真A) に登りました。漆黒の夜中にテントからはい出し彼らと一緒に満天の星と天の川を見て感動しました。 アルバイトで鍛えている子がスパゲッティをゆでる腕さばきに感心させられもしました。
 山登りでは多くの出会いがあります。自然との出会い、山で行き交う人々との出会い、 地域との出会い(鳥海山、月山に登り山形が好きになった)、文学や芸術との出会い(山形では斎藤茂吉記念館、土門拳記念館など、 恵那山登山では藤村記念館、等々)、花との出会い(平標山、月山、鳥海山、早池峰山、秋田駒ヶ岳。埼玉・城峰山の春は百花繚乱)、 動物との出会い(八ヶ岳や群馬・岩櫃山でのニホンカモシカ、野反湖脇の三壁山でのオコジョ、燕岳や北岳でのライチョウ親子)、 自然現象との出会い(燕岳でブロッケン現象に出会い光輪の中で仏様になった)、等々ゆたかな思い出ができました。  定年退職後、特に2011年度は修士論文執筆に追われ、まったく登山ができない一年でしたが今年2012年春から登山を再開、 7月には「一度は登る」山・富士山に元同僚2人と須走口から登りました(写真@)。8月上旬には研究会仲間と 日本第2の北岳に登りました。9月には立山に登りましたがまだ穂高、槍、剣、等々残された時間で登ることができるか楽しみです。

 陸上部関係では10年ほど前に1972年卒5名で埼玉にある日本百名山・両神山に登ったことがあります。 公式退職後、この72年組が呼びかけて3年ほど前から軽い登山の楽しみを共有するようになりました。 坂田さんが企画の中心になってくれていて、私はこれまで高尾山、私の地元の金勝山・笠山、 そしてつい先日11月24日には低山ながらやはり百名山に選ばれている筑波山の山行に参加しました。 筑波山では陽が落ちるにつれて関東平野の見通しが澄み渡り東京スカイツリーが蝋燭のように見えました。

 これからも体力と意欲に応じて無理のない山行を続けていきたいと思います。 陸上部山行へのお誘いを耳にしたらどうぞご参加ください。

(12月20日受信)