「強いものは美しい」 織田幹雄氏
私の現役時代には、織田幹雄氏が毎年国立まで足を運んで我々の練習を見てくださった。
そして、その際には大学通りの蕎麦屋で一緒に昼食を取ることが内務の役目であった。
あるとき私は意を決し、食後のテーブルの上に色紙を差し出した。「一筆お願いします」と
ドキドキしながらお願いしたところ、すらすらと書いてくださったのがこの言葉である。
特に言葉の意味をうかがった記憶はない。たずねるまでもないと思った。
この言葉は、今に至るまで私の最も好きな言葉であり、また人生の目標でもある。
“どや顔”で「強いものが美しいんだよ」と言い切れる結果を出すこと。
人生の中で一回でも多くこの言葉を使えるよう、これからも日々努力を続けていきたい。
大学を卒業してはや25年が過ぎた。なんとかここまでやってこられたのは、
一橋大学陸上競技倶楽部に入部したことで知り合うことのできた、多くの仲間の支えのおかげである。
以下、紙面の許す限り私の大切な先輩、同期、そして後輩の皆さんを記憶に残る言葉とともに紹介させていただきたい。
なお、現在単身赴任中のため手元にまったく資料がなく、自分の記憶のみに頼った文章であることを、なにとぞご容赦願いたい。
「記録とケガは紙一重である」 内田哲也先輩
大学一年の夏、たしか日曜日だったと思う。特にすることもないのでグランドに顔を出してみたら
内田さん(当時4年)は練習中だった。そして夕方になり練習が終わると、部室に残っていた3,4人に「飲みに行こう」と声を掛けた。
関東インカレ三段跳びで優勝した内田さんは先輩からご褒美をもらったそうだが、
「それは自分だけで遣うものではないから」と、私たちを誘ってくださったのだ。
いつもより値の張る居酒屋で、いつもより美味しい肴で飲んだ時に話されたのがこの言葉である。
「競技を突き詰めていけば、最後は記録が出るかケガをするかという厳しい時期が来る、
そういう状況になって苦しくてしかたがないときはいつでも連絡してこい」と。
タダ酒にがっつきながら話を聞いていた落ちこぼれの後輩は、結局この域まで辿り着くことはできなかったが、
今でもこの言葉は忘れられない。
関東インカレの応援席で隣に座っていた一部校の学生が内田さんの跳躍を観て、
「一人だけ違うな」と呟いたのを耳にしたときは、とても誇らしかった。
男が惚れる先輩だった。
「酒をガソリンにして走る」 中野克也先輩
これは周りの部員が中野先輩のランニングフォームを評して使っていた言葉である。
たしかに「マフラーから炎を放ちながら猛進する」ような、馬力のある走りだった。
私は克也さんとはパートが異なるので、一緒に飲みに行く機会はけっして多くはなかったのだが、
短距離パート同期の船井君から、「昨晩は克也さんと何処其処で吐くまで飲んだ」という話を聞くと、
羨ましくてしかたがなかった。そこで、時々押しかけるようにしてはご一緒させてもらっていた。
特に「桃太郎」で飲む夜は最高だった。飲む、そして飲む。
ケガに苦しんでおられる時期が長かったと記憶しているが、最後の関東インカレでは400mHで
きっちりと結果を出された。
「一緒に400mを走ろうぜ」と何度か誘っていただいたのにお応えせず申し訳ありませんでした。
でも、先輩卒業後にはマイルでちゃっかり準都留杯をいただきましたが(笑)。
背中で人を魅了する、強く優しい先輩だった。
「俺はドロボーじゃない!」 日渡淳君
これはみなさんよくご存じの、前一橋大学陸上競技倶楽部監督である日渡淳君の言葉である。
大学4年のシーズンも終わり、「卒業記念」として我々同期4,5人は河口湖マラソンに参加することになった。
私は足切り時間(5時間)スレスレでのゴールだったので、これは付添者からの聞き伝である。
初マラソンにもかかわらず2時間台でゴールした日渡君は、ゴール後に振る舞われる「汁粉」コーナーの
おっちゃんが、威勢よく「もっていけドロボー」と言いながら彼に汁粉を渡そうとしたところ、こう言い返したそうである。
陸上素人から入部した彼の4年間の努力は、彼の残した記録が示しているように、敬服に値するものだった。
しかし、まじめに「クソ」が付く彼と、中学から陸上を始め「擦れて」きていた私とでは考え方が時に
相容れないこともあり、「居酒屋とむ」で朝まで飲んだことも一度や二度ではなかった。
しかし、「一橋大学陸上競技倶楽部を対抗戦で勝てる強い倶楽部にしたい」という思いはいつも一緒だった。
とにかく“熱い”男だった。
そして、彼と同じ合コンに行った記憶は一度しかない。
「強くなりたいんです」 宮崎邦夫君
入部早々、成蹊戦の槍投げで正選手を上回る大スローを披露した彼の、
新歓合宿直後の一言と記憶している。「どうしてジャンプパートの私にそんなことを聞くの?」と思ったら、
彼が強くなりたかったのは「お酒」だった。
すぐさま二人三脚での厳しい「練習」が始まった。人目を忍ぶことが求められる秘密練習の場所としては、
国立北口の「村さ来」が最適であった。
「どうだ、うまいか?」、「つらいっす」。誤解してはいけない。これはすべて対抗戦終了後のコンパの席で、
勝者に課せられる「イッキ」のためなのである。そう、トレーニングの一環だったのだ!
苦労は必ず報われる時がやってくる。私が大学4年の名古屋大学戦では、宮崎君は特大の投擲と
見事な飲みっぷりで結果を出してくれた。そして私の卒業後には、彼は後輩とともに投擲黄金時代を築き上げたのであった。
ちなみに彼との「練習」は卒業後25年経った今でも続いている。相変わらず安い店で、私のペースでしか酒を飲ませない。
誰もがついつい甘えてしまう、気遣いの男である。
いつまでも後輩ですまん。
最近引っ越したアパートの近くに全天候型400mトラックがあることを発見した。
久しぶりにグランドに立つと、トラックのラバーの匂いとフィールドの芝の匂いが
嗅覚を呼び覚まし、あっという間に学生時代にタイムスリップすることができた。
それからというもの、毎週末、必ずグランドに出かけている。アップ、ストレッチ、流し…。
練習後に酒を酌み交わす相手がいないのが少々寂しいが。
生涯の目標、そしてここに紹介した諸先輩をはじめとした多くの仲間を私に与えてくれた一橋大学陸上競技倶楽部に感謝します。
(9月6日受信)
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