遠方の朋・近くの友

「オリンピック今昔―あるいはWonderland of records」・・・・ 建部 克史(1969年入学)


ロンドン・オリンピックも終わってしまった。48年前の東京オリンピック開会式の聖火台点火で、 右手を高々と掲げた最終聖火ランナーの坂井君を「すっくと立った坂井義則君!」と形容した 北出清五郎アナの実況放送を思い出されたご同輩もおられるはずだ。昔ほどではないが、やはり開催中は結構はまった。 ある頃から、私はオリンピックでの日本選手の活躍を見るより、オリンピックでは世界最高の パフォーマンスを見たいと強く思うようになった。カール・ルイスの世界陸上でのデビューあたりからだろうか。 美しいのである。今回で言えば、ウサイン・ボルト、アリソン・フェリックスの走った男女400mリレーの世界記録、 男子は36”84、女子は40”82。男子アメリカチームはナショナル・レコードで走ってもジャマイカの後塵を拝した。 凄いレースだった。800mのケニア ルディシャの世界記録も圧巻で、1周目を50秒を切って入った。 400mのグレナダ キラニ・ジェームズ、19歳の少年ながら、国際大会で4年振りに44秒を切った。 米国人以外で44秒を切った最初の選手になる。こういう異次元のパフォーマンスを見たい。 その意味で今回のオリンピック放送は不満であった。時差の問題もあろうが、日本選手の出ない、 そういうレースはなかなか地上波のLiveで見ることができないし、ましてやハイライト版では絶対やらない。 陸上はまだしも、一部の団体競技ではジャニーズ系のタレントが頓珍漢な応援やコメントをしている。 そういう連中を引っ張り出せば、視聴率をとれると思われているとしたら、視聴者も舐められたものだ。

私は、記録の世界を渉猟するのが好きだ。「点と線」の時刻表のように、数字の羅列ではあるが、 その数字の裏のドラマに思いを馳せると時間の経つのを忘れる。 例えば、走幅跳の世界記録の変遷を眺めていると、1931年10月27日に南部忠平が跳んだ7m98は当時の世界記録で、 4年も破られていない(蛇足ながら、この日本記録は山田宏臣が8m01を跳ぶまで、39年間破られなかった)。 1935年にあのジェシー・オーエンスが人類初めて8mを超える8m13を跳ぶと(この世界記録は25年間破られなかった)、 1965年に米国ラルフ・ボストンが8m35を、1967年にソ連テル・オバネシアンがやはり8m35を跳んで、 この30年間に伸びた記録は約20cm。ところが、テル・オバネシアンから僅か1年後の 建部 メキシコ・オリンピックであのボブ・ビーモンは高地とはいえ、何と8m90を跳んでしまった。 当時の世界記録を55cmも上回ったわけだ。確か、2回目くらいの試技で、先輩のラルフ・ボストンの 膝に泣き崩れてその後の試技を全て棄権した。8m50までは自動的に計測できるシステムになっていたようだが、 この非常識な世界記録は巻き尺で計測された。因みに、その時の2位は東ドイツのクラウス・ビアで8m19、 3位は米国ラルフ・ボストンで8m16。何れも高地にしては、常識的な記録だ。 その20世紀に破るのは不可能と言われ、カール・ルイスをしても届かなかった記録も、 23年後の東京でマイク・パウエルによって破られる。8m95。それが今の世界記録だ。

1987年に5000mで初めて13分を切ったサイド・アウィータにも度肝を抜かれたが、 今の世界記録は12分30秒台。ほぼ60秒のペースで400mのトラックを12周半する勘定だ。 人間の所業とは思えない。 中距離の今ロンドン大会組織委員長のセバスチャン・コー、アルジェリアのモルセリ、モロッコの エルゲルージも異次元だった。コーのライバルのオベットも曲のありそうな勝負師だった。

中距離と言えば、ロジャー・バニスターという選手をご存知だろうか?1954年5月6日、 人類史上初めて、不可能と言われたマイル4分の壁を破る3分59秒4を樹立したオックスフォード大学の医学者(当時医学生)だ。 オリンピックはヘルシンキ大会に出場しているが、その時は1500mで4位に終わっている。 マイルレースでは、フィンランドのヌルミが1923年に打ち立てた、 驚異的と言われた世界記録4分10秒4を破るのに8年かかり、 1945年のスウェーデンのヘーグの世界記録4分01秒4を バニスターが破って3分台に突入するのに9年かかった。それが、バニスターの3分台の世界記録から僅か46日後に オーストラリアのランディが3分58秒0で走り、その後1年の間にランディを含めて23人の選手が 一挙に「マイル4分の壁」を突破したというから驚きだ。誰かが不可能の扉をこじ開けると、 不可能というマインドセットが解かれて、雪崩を打って突入するということなのか。 でも、ビーモンの後には23年間誰も続かず、今もメキシコのビーモンの記録は世界歴代2位の記録として残っている。

  最後は、やはりロンドン・オリンピックで締めよう。同じロンドン大会でも1948年の話。 しかも水泳。第二次世界大戦後初めて開かれたオリンピックで、ドイツと日本は戦争責任を問われて参加できなかった。 しかし、日本は水泳長距離で古橋、橋爪という二枚看板を持っていて、オリンピックの 決勝と同じ日に神宮プールで1500m自由形と400m自由形の全日本選手権を行なった。 その時の1500mの古橋の記録は18’37”0、橋爪は18’37”8。一方、ロンドン大会金メダルの 米国ジェームズ・マクレーンの記録は19’18”5。もし同じプールで泳いでいたら、 古橋、橋爪がゴールした時、マクレーンはまだ最後のターンを終えていないことになる。 400mも同じようなものだった。古橋の全日本選手権の優勝タイムは4’33”4。 ロンドン大会の優勝タイムはそれより7秒6 遅かった。こうして、日本水連は溜飲を下げたが、 その4年後のヘルシンキ大会400m自由形では、古橋は辛うじて決勝に残ったものの8位で、 ヘルシンキからのラジオ実況でNHKアナウンサーが、「日本の皆さん、どうか古橋を責めないで下さい。 古橋の活躍なくして、戦後の日本の発展はなかったのであります。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」と 涙ながらに訴えたのだった。

(8月26日受信)