尾藤淳子のことを書きたいと思った。
彼女は愛媛県川之江市出身、東京女子大のマネジャーだ。私の1つ下なので部に
来たのは1986年だったはずだ。誰かが合コンして連れてくることに 成功した。
誰だったかな。今更ながら文句なくその人は賞賛に値する(このころの合コンの
目的と言えばマネジャー探しと言える)。人当たりのいい性 格とかなり『いけ
る』口だった彼女は来て早々大人気となり灰色の受験勉強生活から明けた部の若
人には十分に眩しい存在だったと言える。
今から思えば最初、1,2年のころは流石に猫かぶっていたというか、遠慮とい
うか『最後の一線』というのが彼女にはあったと思うのだが部の中堅 に、つま
り後輩の数が半分近くになった頃になると慣れ、というのは恐ろしいもので、最
後の砦の崩壊は時間の問題と思われた。
ここでいう最後の一線、砦、とは
皆の前で酔い潰れない
朝帰りしない
ことである。
なお最初に超えた一線、とは行為・行動ではない。体重、とそれに伴う所謂「羞
恥、とか恥じらい、に属するものだ。まだ1年の時新年年明け、2,3 週間ぶ
りだと思ったが明らかに。。。肥えた? 案の定年末年始は食っちゃ寝三昧だっ
たらしい。ただこの頃はまだ「戻さないと」と焦っていたが。。
彼女3年、筆者4年のころ、部でおそらく4〜5人、彼女を真剣に思って奴が居
たと思う。彼女の周りには練習中も練習後もいつもその何人か、が居た 感じ
だ。彼女はますます部に馴染み、後輩を従え実に楽しそうだ。
正確に覚えてないがついに潰れて、部室でその辺に転がっているジャージやト
レーナーを布団代わりに、マグロと化した一夜があったようだ。「尾藤、 つい
に一線超えたな」「超えましたー(屈託なく)」「もう怖いもの無しですぅー」。
しょうがない、それだけ楽しかったのだろう。
そういう私も一時期、週一回くらい彼女の家に長電話をしていた時期がある。私
は実家暮らし、当然携帯のない時代だ。私の家はまだ黒電話だった。今 だった
らSkypeやLineだろう。女性と長電話した経験は私には当然初だ。時間帯は親が
寝た0時や1時ころから30分〜1時間くらい。お互い の地元のことやまあどうで
もいい話。時々深夜映画や番組を見ながらの実況電話もした。つまり、私も彼女
に惹かれていたのだ。それは否定できない。 脈は無かったが。後から思えば彼
女はもう、決めていたのだろう。
これをしたのは俺だけではないようだ。いつかけても話し中の時があった。後日
聞いてみると他の部員とやはり同様に長電話していた。家にも一度遊び に行っ
た時がある。ダメモトで聞いてみた。大家さんによると当然異性立ち入り不可
だったがバレなければ、という話だ。ゲームして夕飯食って帰っ た。誓って
「それだけ」だ。酔いつぶれた彼女を家まで送っていったこともある。
これも後で聞いたら他にも何人も、訪問していたらしい。人によって何度も。心
当たりがある人は手を上げてほしい。
しかしこうやって尾藤のことを思い題して書くのは思いの外しんどい。原稿を依
頼されて本当は5月締め切りなのに大幅に遅れてしまい、依頼された先 輩に申
し訳が立たない。が、やると言ってしまった以上続けるしか無い。
気づいたら私の手元にも彼女がちゃんと写った写真が無かった。ただ彼女を思い
出せるモノ、が1つ我が家にある。
彼女は4年間、新宿区落合という場所に住んでいた。西武新宿線中井駅と東西線
落合駅の間あたりだ。母校まで30分、国立のグラウンドまで1時間と いう距離で
ある。
私の今の妻、当時同期で交際していた朝子は八王子に住んでいたのだが会社まで
1時間半の長丁場、冬は日の出前に家を出なければならない。これを1 年近く
やったが流石にしんどい。ふと考えたら1つ下の尾藤はまもなく卒業、この家な
ら大手町の彼女のオフィスまで30分以下だ。家賃も格安だ。風 呂がないのが難
点だがすぐ近所に銭湯がある。
こうして尾藤の卒業後(1990年)、彼女が入居した。尾藤は台所用品をかなり残し
ていた。それを使っていた彼女が私と結婚(1991年)し道具 が引き継がれた。皿
やコップなど幾つかはさすがに壊れてしまったがヤカンはそうそう壊れない。だ
いぶ汚れたがまったく現役だ。これからも末永く我 が家の食生活の一部をサ
ポートすることだろう。
年をとらなくなった彼女の笑顔がいつも浮かぶ。いや、笑顔しか思い浮かばな
い。考えてみると普通の顔がすでに、わずかに微笑んでいる感じだ。それ 以外
では部員とバカ話しているか酔っ払って盛り上がって笑いまくっているか、だ。
笑い上戸だったと思う。私は飲まないのであまり彼女(とその取り 巻き)とは一
緒に行くことは稀だったが。なお「取り巻き」と言っても颯爽と闊歩するお嬢様
に寄り添う若いツバメ、という綺麗なものでは決して無 い。底抜けに明るい、
いや太ましくモソモソ歩く、垢抜けているんだかなんだか分からない彼女と、象
のように大柄な連中・・国立の大学通りをこれほ どまでにゆっくり歩く技術は
大したものだ。インドやタイで象使いと象が道をゆっくり歩く姿、アレを想像し
てもらったらいいと思う。飲み会の場所に 10分前に先に向かった彼らに、校門
で追いついたのには驚いた。
先に、彼女を真剣に思っているやつが数人、と書いたがこのマッチレースの決着
を見たのは私が卒業後、彼女らが4年の時らしい、どういう経緯か知ら ない
が、まあ収まるところに収まった、という感じだ。
彼女はその特技というかノリを生かしてアサヒビールに就職した。実に納得でき
る選択だ。大好きなものを商売のネタにした訳だ。一度、頬に擦り傷を 作って
いた。何をやらかしたと聞いたら全く覚えてない。おそらく酔って転んだのだろ
うと実に屈託なく、明るく話していた。それほど適材適所だった のだろう。
卒業後も何度か会う時があった。1994年、夏だったと思う。何で集まったか忘れ
たが先輩後輩、多数で飲んだ。この時の彼女が気になった。帰り際 話した。な
あ、ちょっとやつれているようだが大丈夫か? 激務なのか? 先に言ったとお
り彼女は一線を越えていたので「見かけ」にも躊躇なくなっ ていたのだ。それ
がその時、結構スリムになっていた。それだけならいいが髪の毛の量が減った気
がした。生え際があまり健康的な感じではなかった。 「いや、大丈夫ですよ」
と横を向いた彼女を記憶している。
それから約半年後の1995年1月、皆が集まった。呆然として言葉が出ない。訳が
わからない。彼女の通夜なのだ。焼香はしたが彼女を見れない。見 る気になれ
ない。体気をつけろよ、もう学生のころみたいな無茶はできないぞと話したのが
最後だった。
心の準備は全くできなかった。いきなり彼女は消えた。彼女に別れを告げたかっ
た気持ちがある。ただ彼女はそれを断ったのだろう。だろうとは思う が、しば
らく心の折り合いがつかなかった。数人の人は彼女の異常に気づいていた。私は
ちょっと変だなとは思ったがそれ止まりだった。
ご実家での葬儀には行けなかった。行きたくなかった。まだ生まれたばかりの長
女が居ることを言い訳にした。10人以上の連中が彼女の墓前で、 337拍子をやっ
たそうだ。号泣しながら。
私が彼女の墓参りをしたのは同じ年の秋、徳田(同期・主将)の結婚式のために高
松に向かう途中寄ることにした。妻と娘、徳永夫妻の5人で。母上が 実家兼、居
酒屋を開いている。その庭に彼女は眠る。辛くて母上の顔をまともに見ることが
出来なかった。歩き始めたばかりの娘はしきりに、空中の何 かを掴もうとして
いた。
今年(2012年)は彼女の17回忌だった。現在彼女は、松山市郊外の小高い丘に家族
と同じ墓に眠っているとのことである。
(5月21日受信)
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