昨年4月1日にイラク勤務を命じられ、いまだ治安の厳しいバグダッドに着任してから1年以上が過ぎたが、
ここまで無事に過ごすことができた。今月末には離任予定のため、本稿をご覧いただいている時にはバグダッドにはいないと思うが、
一橋陸上競技倶楽部から貴重な機会をいただき、バグダッドでの生活や、以前に4年半滞在したカンボジアでの経験と合わせて
自分が考えたことを書かせていただいた。少しでも諸先輩方にご関心をお持ちいただく内容があれば大変うれしく思う。
なお、特にイラクについては、安全対策上の問題から詳しくお伝えできない部分もあるがご容赦いただきたい。
以下は私個人の経験や意見であり、所属組織の見解ではないことをお断りする。
1 バグダッド生活
日本でのイラク関連の報道の大半は、残念ながら「テロ事件」関連である。
4〜5年前から比較すれば、イラクの治安状況は劇的に改善されたが、普通に見ればまだ世界でも有数の治安の悪い国である。
私の職場は、敷地周囲がコンクリート壁にぐるりと囲まれ、武装した警護員が多数配置されている。
仕事で外出する時には、ずしりと肩にくる防弾チョッキとヘルメットを装着、車列を組んだ防弾車に乗り込み、
武装警護員が護衛する。勤務中に外部からロケット弾が飛んでくることもあり、1日に数回、シェルターに避難することもあった。
寝泊まりする宿舎は、職場と同じ敷地内(徒歩数十秒)に準備され、バグダッド滞在中は外出の自由はない。
食事は、上司を含めた全員が同じテーブルを囲む。
起きてから寝るまで上司や同僚と顔を合わせ、大学時代以来の「合宿生活」を送っている。
数少ない楽しみの1つはジョギングである。
夏の昼間は50度前後まで気温が上がるが、日が沈んだ後、狭い敷地内を何度も往復して走る。
気温は高いが極端に乾燥しており、どれだけ走っても汗がだらだらと流れることはない。
同僚と勤務後に食堂でお酒を飲むこともある。
しかし、市内で酒を扱っている商店は「非イスラム的」としてテロリストの攻撃対象となる。
イラク人に聞くと、以前は酒を飲める国だったそうだ。バグダッド駐在歴がある陸上部の大先輩からも、
イラン・イラク戦争のさなか、バグダッドのチグリス川岸で飲んでいたというお話を聞いた。
サッダーム政権時代は、政治的自由はないが宗教色は弱かった。
今は、民主化して政治的自由はあるが、基本的に政党が宗派(シーア派、スンニー派)ごとに組織され、
宗派により居住する地域が分かれるなど、宗教が社会に及ぼす影響が強くなった。
イラクの民主主義を目指したアメリカは、宗派政党による民主主義政治をどう思っているだろうか。
(余談になるが、イラク人と話をすると、アメリカ軍の駐留は許せないが、サッダーム政権時代に戻ることも嫌であると言う人が多い。)
2 紛争地から見た日本
私は、カンボジア、イラクと、紛争を経験し、
その被害から国の復興を図ろうとしている国に滞在した。(なぜか海外の先進国で生活した経験はない。)
カンボジアでは、平和構築の専門家として、内戦後に残された小型武器(ライフルなどの銃器と考えていただければ良い)
対策のプロジェクトに携わった。紛争でインフラが破壊し尽くされた社会に、何の役にも立たない武器だけが残り、
治安の改善や経済復興を妨げる状況があった。長い紛争は、人間同士が信頼し話し合うことを忘れさせ、物事を銃で解決する「暴力の文化」を定着させていた。
イラクでは、街中の至るところに配置された武装イラク軍人や戦車、広大な基地を展開する米軍の存在を多くの場所で目にした。
肩にぶら下げられたライフルがごく自然な光景となった。
幸いなことにテロ事件や戦闘場面に遭遇することはなかったが、戦争とその後の復興には、双方にとてつもない人と金、時間が必要だと実感させられた。
両方の国から、日本は非常に尊敬されている。
第二次世界大戦の敗戦から、「奇跡」と言われる経済復興を果たし、今や世界経済を率いる国となった。
紛争の被害を受けた両国は、日本こそがモデルであり、日本から学びたいと思う。
現代の日本には多くの問題があるが、それでも彼らから見れば豊かな国であり、何より平和である。
私も将来への不安は確かに尽きないが、世界中には、いつ命を落とすかわからない生活を送り、今日明日を食いつなぐために働かねばならない人は多い。
私やさらに若い世代は、同年代のイラク人やカンボジア人と比べ、総じてエネルギーを失っている。
日本人が政治や社会に不平を言っている間に、彼らは貪欲に何とかして海外へ出て勉強し、働く機会を狙っている。
自分のため、家族のために、知らない世界に飛び込む気概と行動力があり、語学を初めとした勉強や人脈作りに邁進する。
祖父母、親の世代が作り上げた裕福さに慣れきった我々とは、リスクの取り方と得られる成功への考え方が大きく違う。
彼らに明らかな希望があるわけではないが、現状にとどまることは受け入れられず、自分が踏み出さなければ変えられない。
その必死さが、私には「熱量」の違いと感じられるのだろう。
しかし、日本人はいまだ彼らの尊敬の対象であり、それは経済力だけによるのではない。
日本人の勤勉さや目上の人を敬う姿勢といった国民性もまた尊敬されており、技術力や経済面だけでなく、
文化や精神面を日本から学びたいと考える人は多い。最近は「ソフトパワー」の重要性が言われるが、先人が作り上げた誇るべき財産である。
3 紛争被害国、途上国を支援するということ
私は、紛争やその後の平和構築の現場を経験し、実際にプロジェクトも運営した。
そうした経験を通じ、@平和への理想を求め、そのメッセージを社会に訴えることも重要な一方で、A不幸にも紛争が起きてしまった国の現場で、
復興のために実際に必要な対策に手足を動かす人間が必要と考えるようになり、特に後者の道を求めるようになった。
一橋卒業生が背負う「キャプテン・オブ・インダストリー」とは違う道を歩んでしまったが、意外にビジネスの世界に通じる点は多い。
紛争被害国や途上国への支援は、援助や寄付の文脈で語られることが多い。
日本が果たすべき役割として、援助を通じて支援に貢献することはもちろん重要であるが、
もう一方で、いつかは援助を卒業、自立して、その国自らの「モーター」で回らねばならない。
つまり、ビジネス同様、収入を得て次に投資するサイクルが根付く必要がある。
加えて私は、支援そのものの過程にも同様の仕組みが必要だと強く考えるようになった。
国際機関やNGOは支援対象国の発展に重要な役割を果たしているが、その資金は「ドナー」(国や寄付者)から「与えられて」いる。
多くの国で財政難が叫ばれる今、「ドナー国から被ドナー国へ」の資金の流れが、支援を必要とする国に十分な量で永続するとは思えない。
支援のうち一部であれ、売り手も買い手も利益を得るビジネスとして、企業や投資家が参入するモチベーションを生む仕組みが必要である。
残念ながら、現時点での私の不十分な知識と経験では、具体的な方法はまだ思い浮かばないが、
時間がかかっても自分のテーマとして常にアンテナをはって考えていきたい。
一橋大学陸上競技部を卒業して、早いもので12年が過ぎた。海外にいるせいか、帰国すると同期の部員を中心に集まることが多い。
(私の誘いに同期の皆が相手をしてくれているというのが正確である。)
私は、卒業後に職を転々として今の仕事に就いているが、原点には、陸上部時代の失敗がある。
陸上競技選手として最後の試合、4年時の箱根駅伝予選会で、練習不足がたたり途中棄権した。
自業自得だが、今でも人生最大の後悔であり、あんな後悔は二度としたくないと思う。
卒業後は、一生安泰と親も喜んだ大企業に就職したが、途上国の開発・発展に直接関わる仕事がしたいと、
次の身の振り方も決めないまま退職、ニートの時期も経て、幸運にもカンボジアやイラクの経験を得ることができた。
すべては、自分に甘え、やることをやらなかった、あの時の後悔はしたくないという思いに通じる。
当時の部員仲間には迷惑な話であるが、そんな貴重な経験を積ませてくれた一橋大学陸上競技部と仲間に心から感謝している。
(2011年8月14日受信)
**写真は、上(バグダッド市内)、中(チグリス川)、下(バグダットにて)、
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