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1996年4月に弁護士開業のために佐賀県の武雄市に来てから早いもので15年になります。
弁護士事務所を開設するときには、50才にも近くなって、イソ弁とか、大きな組織にはいるのはまっぴらで、自由業にあこがれ、いわゆる弁護士過疎と呼ばれたところを探して、佐賀県の武雄市に決めました。 武雄市は佐賀県の西部に位置し、武雄市、そして隣の嬉野市は温泉が有名で、車で20分も走れば有田町、伊万里市と日本有数の焼き物の産地です。 おまけに車で10分も走れば至る所にゴルフ場があり、趣味と遊びでは、天国のようなところでした。 そんなところに、1996年当時は、裁判所(管内人口25万人)がありながら、弁護士が1人もいないという地域でした。 私は、佐賀県にはもちろん地縁も血縁もありませんから、開業当時は「パラシュートで弁護士が降りてきた」とかの表現で、かなり話題になり、マスコミにも取り上げてもらえました。 そのためか、宣伝もしないのに開業当初から大変忙しく、温泉とゴルフ三昧でのんびり仕事などというのんきな考えは振っとんでしまいました。 2年前から女房も東京に帰り、気軽な単身の身ですから、知り合いの武雄の温泉旅館に下宿し、同僚からも羨ましがられています。 私自身は、社会人になってからも体を動かすことが好きで、テニス、軟式野球、サッカー等のクラブにも参加してコートやグランドを走り回っていました。 大学の陸上部の後輩の活躍にはもちろん関心はありましたが、陸上競技そのものはオリンピックや世界陸上など、大きな大会をテレビで観戦するだけになりました。 佐賀に来てからは、そのスポーツですらも仕事の忙しさに思うように時間がとれなくなっていました。 ところが、2010年の夏前に、大学で同学年だった岩瀬浩一君(現副幹事長)から陸上競技に関するメールがしきりにはいるようになり、昔がらのマニア(言い換えれば「おタク」という)らしい岩瀬君の情報に、私も段々と再び陸上の世界に引き込まれるようになりました。 そのあげく、今年の夏は岩瀬君と韓国の大邱での世界陸上を4日間も観戦に行くはめになりました。 その弥次喜多観戦記はいつの日にか、岩瀬君のほうに譲ることとします。 私は、会社勤めの後に、司法試験に合格したのが46歳の時で、司法研修所では2番目の年配者でしたので、同期生のみならず、教官からも年長として丁重に扱われました。 司法研修所では、早速サッカー部を立ち上げ、カタールのドーハの悲劇の翌年でしたから、たちまち30名くらい集まりました。 ティーム名は「和光アウトローズ」でユニフォームも揃え、若い修習生と一緒に走り回っていました。 しかし、修習期間中の練習試合で、タックルを受けて左膝の前十字靱帯断裂という重傷を負い、以来スピードをあげて走ることができなくなりました。 ユニフォームと怪我の程度は一流選手並だとみんなから言われたものでした。 ただ、人間はできないことにあこがれるもので、走れないと分かると、最近はもう一度全力で走りたいという思いが年々強くなっています。 ここ数年は家族のいる東京に帰京する機会が増えてきましたが、昨年ころから時間を見つけて大学のグランドに足を運ぶようにしています。 グランドに足を踏み入れるたびに、そしてあの汗臭い部室を覗くたびに、私の時代は一気に40年前に遡り、タイムマシーンの世界に浸ることができます。 調子にのって、頼み込んで一緒に走った津田塾の短距離の女性選手に全然歯が立たない自分に愕然とし、己の現状を知りました。 現役の学生諸君がどう見ていたかは知るよしもありませんが、それでも大学のグランドで久しぶりに走るのは新鮮で感激しました。 グランドは、タータントラックに改造する計画があるそうで、学生のためにそれはそれとしておおいに賛同し、協力もします。 しかし、その一方で、土のグランドでの大雨の後の水かき、試合前のライン引き、夏にトラック外周の除草をみんなでしたこと、冬の霜で走れなかったこと、それらの思いがなくなると思うと一抹の寂しさも感じます。 クラブとグランドはメルヘンの世界です。 (2011年8月5日受信) **写真は、武雄温泉のシンボルの楼門です。 デザインは東京駅を設計した辰野金吾です。大正三年築 |