訃報 梅原肇さん(昭和43年卒)


S43卒・梅原肇OBが2025.4.2ご逝去、享年80才、生前定期的に会合のS43・44会有志各位から寄稿の追悼文をいただきましたので掲載します(入学年/五十音順)。

● 梅原さんのご逝去大変ショックです。
2023年の43・44会でお目にかかったのが最後で その後もお変わりなく元気でご活躍と信じておりました。同じ長距離で一緒に走っていたことを思い出し胸が痛みます。貴重な仲間を失い茫然としています。心よりご冥福をお祈りします。(S39入・遠藤恒夫)

●「故 梅原肇君を偲んで」
 次の43・44卒の集まりで「梅ちゃん」とも再会できると思っていました。如水会報の訃報欄に梅原君の名前が載っているとの連絡があり、彼が逝去したことを知りました。猛暑の中の降雨日でした。何か涙雨の様にも思われました。会報には、既に4月に亡くなったと記載されていました。かつて、体調も落ち着き毎日居住地の千葉県白井地区をウォーキングしていると話していましたが、今年の桜花や菜の花を見ることができたのでしょうか。実は、毎年の年賀状を交換していましたが、昨年末ご親族の喪中のハガキが届き、様子がわからないままでした。どうしているのかなと思っていた矢先の訃報連絡でした。

 2023年5月に43・44会が国立で行われ、その時の大学構内などの写真を見ても、とても快活な笑顔が印象的です。「オオ!」と言いながら、笑顔で手を挙げて近づいてくる彼の姿が思い浮かばれます。

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(前列中腰の右から二人目が梅原OB、後列の左から二人目が徳島OB)

 コロナ前のいつ頃だったか、彼と待ち合わせして談笑したことが2回あります。たまたまよく似た彼のブレザーを間違って着て帰ってしまい浅草橋の柳橋のレストランで会って交換した時と、京成上野で待ち合わせしてから上野公園に行き、黒田清輝館などを散策し、近くの茶房で飲食した時です。話した内容は忘れましたが、お互いの近況などを話し合いました。

 クラブでは1年から同じ中長距離に属し、練習もいつも一緒にこなしていました。追いつ抜かれつグランドを周回したり、構内や街路も走り、レースにも参加しました。彼とは記録も同じ程度でしたが、重心を低く、ヒタヒタと走り続ける感じを今も思い出せます。そして、やっとの思いでゴールにたどり着き、トラック内の草むらに寝ころび、青い空と白い雲を眺めたのは至福の時でした。手持ちの写真を探したら、対校戦の後なのか審判席に階段状に居並ぶ1枚と都留先生の軽井沢別荘での合宿時の1枚とが見つかりました。もう60年程前になってしまいましたが、彼と部の皆さん、ご指導いただいた先生と共に過せた宝物のような若きシーンです。その後の写真には、彼がブラジルに赴任していた時期と重なったのか見当たりませんでした。

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(最前列右が梅原OB、中央が徳島OB)

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(都留重人先生の直ぐ後が梅原OB)

 人生のレースも大分長く走ってきましたが、いづれ後を追いかけて誰しもがゴールを迎えます。その後も草むらではなく、霊的なものとして永遠に生き続けて再び会いまみえることを信じたいと思います。梅原君や既に亡くなった諸先輩や仲間たちに改めて哀悼の意を表し、永久の安息が与えられんことを祈ります。 (S39入・徳島 巖)

● 驚きました。最後に会ったのは創部100周年だったと思います。まだまだ元気だと思っていましたが・・・。パートが違ったので練習時や競技面でのエピソードは思い出せませんが、真面目で自分の考えをしっかり持ち一緒にいて同期として心強い人柄でした。それにしても早すぎますね。残念です。心よりご冥福をお祈りします。 (S39入・藤田伸夫)

● 梅原さんの訃報に驚いています。43・44会でお会いしている時はいつもにこやかで、体の不調は全然感じられませんでしたので、突然の訃報に驚きました。 43・44会でいつも日本酒を持ってきていただき酒好きの私はとてもうれしく飲ませていただきましたが、梅原さんののみっぷりもとてもおいしそうに飲んでおられたので、もう一緒に飲めなくなったのが、悲しく残念です。梅原さんはブラジルでの仕事について話をするときは、当時の楽しかったことを思い出すように微笑んでいたのを思い出します。 これからも43・44会で一緒に楽しく飲みたいと思っていました。 残念です。ご冥福をお祈りします。 (S39入・渡邉達也)

● 梅原さんの思い出は、コロナ禍前の43・44懇親会です。
ご本人は、がんと診断を受けながらも、毎回(銘柄を変えて)銘酒の一升瓶を差し入れ下さり、皆とワイワイガヤガヤ飲みあったことです。学生時代から変わらぬ温厚さ、優しい笑顔も忘れられません。
1967年の沖縄合宿で休息日に行った万座毛での写真です。

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(左から梅原OB、渡邉OB、徳島OB、池田OB)

58年前のこの写真をあらためて見ながら梅原先輩を偲んでいます。只々ご冥福をお祈りするばかりです。 (S40入・池田隆弘)

● 梅原さんを偲んで
梅原さんは同じ長距離の1期上の先輩、私の先代の内務マネージャー、また何よりも良きお人柄から気さくに御交誼頂きました。
 高度成長期を支えた基幹産業の鉄鋼業界(当時の川崎製鉄)に就職、主に経理部門を歩まれ、第三?の職場の防衛共済会でも経理部長他ご活躍されました。
43・44会では東北の辛口名酒一升瓶を(時には2本も)携えて、千葉の白石市からニコニコとご参加下さいました。宴席前の有志カラオケ会では梅原さんの迫力ある男演歌を聴くのが楽しみでした。もうそれも叶いません。

 学生時代の梅原さんで私には特に印象的なことがあります。それはクラブハウスでの合宿で持病治療用に漢方薬を土瓶で煎じ、良薬は口に苦しと根気よく黙々と飲んでおられたことです。そして持病を克服し競技を継続されたことです。私事ながら30才代前半に内臓を痛め漢方薬を土瓶で煎じ2年間飲用し続けた際、梅原さんのことを思い出しつつ頑張って飲み切ったものです。梅原さん、(今の顆粒タイプ漢方薬と違い)当時の漢方煎じ薬はかなり苦かったですよね。

 最後に「ATHLETIK FREUND 1967」(偶々私が編集委員)の部員紹介コーナー四年生素描から適宜抜粋し、梅原さんを偲びたいと思います。

 『決して、自分を強引に外に押しだすといったタイプではなく〜手薄な四年勢にあって、まさに縁の下の力持ち的存在であった〜細かい所によく気づき、人の面倒見もよろしい。 彼はよく、こゝ一番というレースで裸足になり、それがまた好記録を生む。どちらかと云えば、トラックよりロードの方を好み、三年の関東インカレ20kmで、猛暑の中を力走したことは、まだ記憶に新しい。また、時には、走巾跳なども嗜むといった、なかなかのスプリンターでもある。』

ご冥福を心からお祈り申し上げます。 (S40入・後藤哲也)

● 梅原さんのご逝去のご連絡に接し、まさかと驚いています。ご本人から、前立腺の数値が高い時があったけど、今は数値が下がったと、前回の43年44年会で伺っていましたので、心配はしていませんでした。カラオケでご一緒した時には、低音の魅力を存分に発揮しておられました。
ご冥福をお祈り申し上げます。合掌 (S40入・山本淳一)

以上