訃報 吉村研一さん(昭和40年入) #2

同期の美和新一さん(昭和40年入)さんより頂きました。

吉村研一君

 入学が決まった1965年4月グランドを訪れ、陸上部に入部を申し込んだ。
その時グランドの雰囲気にすっかり馴染んでいる様子の学生を「君と同じ新入部員」と紹介されたのが吉村との初めての出会い。
 高校時代国体4位入賞の凄い選手、下宿先が私の下宿先に近いことを知った。程なく、吉村の隣室が空室になったので、移ってこないかと誘われ、部屋が広く下宿賃も安い国分寺市東元町桜井荘に引っ越した。

 授業、練習の後下宿そばの食事処で夕食、各々の部屋で勉強、読書。9時頃になると吉村が「入っていいか」と私の部屋で30分くらい話をするのが桜井荘での1日。話しの内容は、授業について、友人について、出身地について、聞いているラジオ番組(TVは無い)について等様々。最も多かったのは互いに読んだ本についての感想。
 陸上部の練習と大学の授業の後の空き時間にやりたいことが二人とも読書だった。国分寺駅南口前の古本屋で読みたい本を購入して読んだ。受験勉強の暗記のおかげで著者、題名は諳んじているがその実中身を読んではいないという本が分かり易いターゲットで、率先して読んだ。

トルストイ、ドストエフスキー、ソルジェニーツィン、カフカ、ブロンテ姉妹、ヘミングウェイ・・・・・。
トーマス・マンの「魔の山」と漱石の三四郎については、吉村の感想はいつもより力が入った。

 不思議なくらい陸上競技の話題は出なかったが、睡眠、食事内容、マッサージの必要性などについて運動部初めての私に一から教えてくれた。口に出さなくとも生活態度がそれを示していた。 2年生になると、国立(くにたち)のクラブハウスに空きができ二人ともそこに移ったため、桜井荘隣室生活は1年足らずで終わるが、大学入学という人生の一つの節目に大変有意義な時間を過ごせた。

 一度大失敗をした。1年生の12月の奥多摩駅伝、Aチームの4区を走ることになった私、短距離の吉村は隣室だから私の付き添い。  当日朝変な予感で目覚めると起床時刻を1時間過ぎていた。同時に隣室から「美和、寝坊だ」と吉村の大声。国分寺駅まで走り、立川駅で青梅線の氷川駅(今の奥多摩駅)行きに乗り替えた。
携帯電話がない時代、何処にも、誰にも事態を連絡出来ない。吉村に壁になってもらって車内で着替えた。車内で出来る限り身体を動かして、アップの代わりに。窓から見下ろすと並行する道路を選手が走っている。頭の中で時間を計算して最終コールに間に合うかなと吉村と言葉少なに話した。
 ようやく氷川駅に到着、中継地点までの急坂を駆け上ると、控えの選手がゼッケンをつけて立っているのが見えた。ゼッケンを外してもらって震える手で自分のランシャツに付け替え間もなく登ってきた3区の鈴川さんから襷を受け取って急な下り坂を走り始めた。 前後のチームとの差を維持したまま古里の4区/5区中継所に。

 吉村は高校時代の太腿肉離れの瘢痕が時々悪化するという問題を抱えていた。悪化する気配があると全力の練習が出来ない。無理をおして全力疾走すると痛みが出て走れなくなってしまうことが起こる。クラブハウスの部屋で瘢痕の周囲を丁寧にセルフマッサージしていた。スポーツ医学が進化した今なら、超音波、電気、温熱療法、ストレッチ、適切な筋トレ等もっと改善を期待できる療法があるだろうが、当時は無かった。
 400mから800mへ、更に1500mへと種目を拡げたのは、全力疾走ができない状況でのやむを得ない選択だったと思っている。
 本来短距離選手なのに、短距離を全力疾走する練習ができないもどかしさを常に抱え続けた大学競技生活であったろう。その悔しさを微塵も見せずに、明るく陸上部の中心になって、部員をリードし続けた素晴らしい人格に心から敬服している。
 このことと、陸上競技のイロハをさりげなく教えてくれたことに対するお礼を、いつか互いに歳を重ね照れや拘りが無くなった頃にちゃんと言おうと思いながら未だ言えていない。

 100mから20kmまで走った稀有な選手である。100m、200m、400m、800m、1500m、駅伝(3q)で試合に出たのに加えて、箱根駅伝予選会の20kmにも出た。上位10名の記録の合計で順位を決めるのは当時も同じで、15名(当時は15名迄出走可)中、吉村は4番目の記録だった。ある程度想像はしていたが、後半ガタ落ちになるようなことはなく、長距離の走り方も心得ていたことに改めて感嘆した。

次に吉村に会ったらやりたいことが2つ。

 スイスのダボスのWald hotelが吉村の好きなトーマス・マンの「魔の山」の舞台であるサナトリウム(結核療養所)のモデルとされている。機会があって先年そこに行った。ダボス会議でも知られるようになった有名観光地の南向きの陽当たりの良い斜面にあって隣はホテルや別荘。周辺では更なる観光客目当てのホテルやアパート建設の音が元気に轟く。Wald hotelの前には「魔の山」のサナトリウムのモデルはここである旨の看板があり、私と同じ目的の訪問者が多いことが分かる。Thomas Mann Wegという名の散策コースもある。

 吉村と「魔の山」を読んでいた頃、このサナトリウムは静かなアルプス山麓の人気のない場所にあるのだろうと二人とも勝手に思い込んで話をしていたが、あのサナトリウムが今はこんな風だよと笑いながら桜井荘のおしゃべりの続きをする。

もう一つは、長い間言いそびれているお礼。

その時を楽しみにしている。

2024年9月26日  美和新一 (1965年入学、1969年卒業 長距離)

chart
左端が美和さんで、右端、フライングしているのが吉村さん。美和さんが左に視線を向けているのは、その時吉村さんが何かおふざけをやりそうな雰囲気だったので、注視していたら案の定やらかしたという場面

chart
卒業アルバムから。商学部、山城章ゼミ 後列左から2番目が吉村さん、5人目が浅井さん

徳島巖さん(昭和39年入)さんより頂きました。

「故吉村研一君への哀悼のことば」               徳島 巖(1964年入学)

 吉村君逝去の報せを受け、先ず思い起こされたのが、9年前(2015年3月)のことです。細谷ゼミナールの同期で福岡・小倉に行くことになり、その際に戸畑の吉村君宅を訪れることにしました。卒業以来、長く会っていなかったので、前もって電話で訪問したい旨伝えました。玄関を入り奥様の案内で横になっているベッド脇に行くとすぐに思い出してくれて、陸上部時代の思い出話しに時を忘れました。グランドでの練習、クラブハウスでの生活や合宿、対校戦、酒を飲み大声で歌ったコンパなど・・・。ふと見ると、床の間に飾られた1964年東京オリンピックの聖火リレーのトーチが目に入り、彼が長崎の高校時代に活躍したことからランナーになったことなどを話題にし、今だったらTVの鑑定に出せるなどの笑い話にもなりました。彼の入部の際には、大物が来ると騒いだことも思い起こされました。しかし、1時間程すると疲れてしまって寝ることとなり、その後しばらくの間奥様から最近の体調や介護、リハビリの状況などご苦労されているお話を伺いました。1時間半程度の短い時間でしたが、ご家族のご健勝を願いつつお別れしました。戸畑駅までの幅広い道は物悲しく感じられたことが思い出されます。

 実はその日の夕方、小倉からバスで長崎に向かうことにしていましたが、朝方に一緒に行ったゼミの仲間の一人が急病で救急病院に運ばれて亡くなってしまうという予期しないことが起きました。自分は東京に戻る皆と別れ、戸畑に向かいました。そしてその夜、長崎に着き、翌朝、西坂にある二十六聖人記念教会のミサにさずかり、吉村君とご家族の安寧そして亡くなった友の安らかな憩いを願い祈りを捧げました。本当に忘れることのできない一日となりました。

 その後どうしているか、年賀状の交換も途絶えて気になっていたところで訃報に接しました。未整理の写真から、吉村君が写ったものを探し出しました。都留先生宅での記念写真の頑強で凛々しい姿です。学生時代のはつらつさに比べ、人生の後半で身体の自由を奪われて忸怩たる思いであったことは想像に難くありません。また、自分の終活の一環で書類等の整理していましたが、一年留年した際のアルバムが見つかり、寄せ書きに「あと一年、徳さんのデレデレした酔い姿がみられるね。吉村」と書かれてしまっていました。今は、悲しい酒を一人飲みながら、お疲れ様!どうか安らかな憩いと永遠の平和が与えられますようにと祈るばかりです。

chart
昭和42(1967)年冬ころ、都留先生の自宅庭にて 都留先生の右隣が吉村先輩 徳島先輩は最後列から2列の右から3人目(眼鏡あり)

柳沢民雄さん(昭和43年入)さんより頂きました。

 43年入学、47年卒業の柳沢民雄です。先週、3年先輩の後藤哲也さんから吉村研一さんの訃報が送られました。信じられない思いです。「信じられない」というのは卒業以来ほとんどお会いする機会がないまま時間が過ぎ去っていったからでしょう。私にとっての吉村さんのイメージは今でも800Mを2分を切って駆け抜ける豪快で畏怖の念を感じさせる九州男児だからです。

 1968年入学の私は東京の東の端、江戸川区から大学とグランドに通っていましたが通学に時間がかかるため、クラブハウスにしばらくお世話になった時期がありました。近藤節さん、「近藤おばさん」、に入居の部員は賄いの世話を始めいろいろお世話になっていました。私は当時3年生の鈴木仁さんと同じ部屋に住んでいましたが4年生の吉村さんは豪放磊落なお人柄で夜遅くまで雀卓を囲みながら部活と学業をこなしておられました。

 Homepage保守担当の吹田さんが管理されている陸上部のホームページにどなたかに求められたのか私の文章が載っています。「遠方の朋・近くの友」2012年のNo.045の「走ること、学ぶこと、登ること(1968年入学 柳沢民雄)」です。卒業生には珍しいのでしょうが、1972年3月卒業と同時に埼玉県の県立高校教師となり、38年間教職に就いた後、社会人入試で修士課程で学ぶ機会を得て、学生として国立のグランドに戻ってきました。懐かしい部室の前、以前床屋があったところを歩く浜田さんの後ろ姿に気づいて声をおかけしたり、後輩を指導する池田さんとお会いして近況を交換したりしました。池田さん、後藤さんには合計300歳チームで走ろうと声をかけていただきましたが果たせず、ホームページで参加者の感想を読ませていただきました。

 在学当時キャプテンであった吉村さんにはなにかとお世話になりました。心からご冥福をお祈りいたします。琉球大学との合同練習のため、52時間もかけて船で復帰前年の沖縄を訪ねたり、都留先生の別荘をお借りして軽井沢合宿をしたり想い出は数多くあります。昨年秋の陸上部創設100年を祝う会で懐かしい同輩・先後輩の皆さんとお会いしたのが直近の陸上部との想い出です。

 吉村研一さんのランニングフォームを思い出しながら、これからも現役の皆さんが一橋陸上部の伝統を発展させていってほしいと願っています。