訃報 吉村研一さん(昭和40年入) #1
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同期、池田隆弘(昭和40年入)さんより頂きました。
吉村研一君を偲んで いくつかの思い出
同期の吉村研一君が9月8日亡くなったとの報を受けました(9月18日)。長年療養中でしたので、あまり驚きはありませんでしたが、やはり寂しい。吉村(同期の誼で敬称略)は、1年のときから100mから20kmまでオールマイティの怪物だった。陸上競技の思い出も沢山あるが、それは他の方に任せて、卒業後の彼との付き合いを書く。
〇結婚
八幡製鉄入社数年経った冬、九州八幡勤務の時に結婚した。私は東京にいたが招かれて行った。前日、新婚後の住まいとなる社宅に泊めてもらった。ご両親と一緒だった。
翌日朝、式場に行く前、ご両親と過ごす時間をと気を利かしたつもりで、一人散歩に出た。しばらくして、帰ろうと思ったが、同じような4-5階建ての社宅棟がずらりと並んでいて、どれだかわからなくなった。時間が経ち困っていると、やっと探し当てたと吉村が迎えに来てくれた。
社内結婚で式場は会社施設と吉村らしい気遣い、配慮だった。この2年ほど後(だったと思う)、吉村が東京勤務の時、私の結婚式(東京)では司会をしてくれた。
〇すれ違い
30代後半、吉村が北九州、私が福岡勤務時代、彼から会おうと電話があった。しかし、その時都合がつかず、その後もお互い調整がつかず、そのまま会えなかった。
そして、1年ほど経ったころ、彼が脳出血で倒れたと知った。八幡では、大勢の部下がいる重要ポストで社内、社外との付き合いも多く、体に自信もあったのだろう、無理をしたのではと思う。今でも、元気なうちに九州で会って飲んでおきたかったとつくづく思う。
〇吉村宅訪問
・私はその後会う機会がないまま東京に転勤になった。戸畑にある彼の自宅を初めて訪問したのは、病に倒れて数年経っていた。訪問に際し、陸上部同期の写真・動画をデジカメに撮って持参した。名古屋の望月、大阪の鈴木も出張を利用して撮った。
吉村宅では、TVに接続して拡大映写した。一人の動画は10数秒ほどの短いものだったが、久し振りに見る顔、声で、「オー、オー、○○だ」と喜んでくれた。
立ち居振る舞いに不自由さはあったが、記憶は相変わらずしっかりしていて、ダジャレを飛ばし同期の思い出話をした。奥様が車で連れ出したりリハビリしたり体を少しでも動かそうと努めておられた。
・2008年10月、筑紫野市二日市温泉で陸上部同期会をした。宿泊の大丸別荘に吉村の参加を考えたが移動に無理があり、同期9人で励まそうと吉村宅に押し掛けた。
学生時代に戻った気分で時間を過ごし、お互い様子が分かって良かった。
奥様が吉村のわがままを受け入れてお世話されているのが印象に残った。体重の重い吉村の介護は体への負担が大きい力のいる仕事と想像できた。
・2012年、グランド全天候化工事の寄付を依頼に訪問した。体が不自由、金銭的にも余裕がない(と思われる)者に頼むのは、本当に心苦しかった。しかし、「吉村研一」が寄付者名簿(銘板)にあれば、一橋陸上部に居た証にもなるとの思いが強く、頼みこんだ。快く引き受けたくれた。嬉しかった。
・グランド改修工事が始まる前、2013年11月11日夕刻、「土のグランドお別れ会」を行った。その時のイベントとして1964年東京オリンピック時の聖火トーチを参加者全員持ち回りで掲げて、グランドを1周した。
この聖火トーチは、吉村に頼んで送ってもらった。彼が高校3年時、長崎県内の聖火リレーで使った本物。初めて戸畑の家を訪問した時、床の間の柱に無造作に立てかけってあったのを思いついたのだ。同期の後藤がトーチに火が付くように工夫をした。
トーチが吉村の身代わりに「土のグランド」にお別れしたと思っている。
実は、この日の午前、旧国立(こくりつ)競技場で、東日本マスターズ陸上競技大会があり、「陸上競技場」使用としては、最後の日だった。私も参加した。
この聖火トーチを持ってトラック周辺、スタンド席、競技場周辺を走った。旧国立競技場の見納め・思い出としての意味もあったが、吉村ならここで活躍しただろうにという気持ちで、見せたかったからだ。
このトーチのお礼・返還に吉村宅に行ったが、帰りに忘れ物をした。奥様が暫くして気が付かれ、小倉までわざわざ車で届けて下さった。
上記以外にも何度か吉村宅を訪問している。行くたびに少しずつだが、あの頑丈な吉村のあちこちが弱って行く様に見え、涙がでた。
38年間という長い闘病生活のほぼ全期間(最後の5年ほど施設・病院入所)、奥様が自宅で重い体を看護し続けられた。奥様のこの献身があっての長い闘病だった。このため奥様ご自身も椎間板ヘルニアになるなど心身共に大変だったはずだが、あまり話されていない。お子様3人(男2人、女1人)を立派に育て上げられた。ご苦労は、想像もできない。
これからは、戸畑でお一人ゆっくりされるか、娘さんがおられるイギリスに行かれたらと言ったら、静かに電話口で笑っておられた。
以上
2024/9/23 池田隆弘(1965入)
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遠藤恒夫((昭和39年入)さんより頂きました。
吉村君のご逝去 衷心よりご冥福をお祈り致します。彼は九州男児で 豪放磊落 情熱 バイタリティーにあふれ すべてに全力で取り組む熱血漢でした。高校時代にインターハイの400mの入賞を果たした実力者で一橋陸上部に入ってきたときから別格の大スターでした。私も彼から大きな刺激を受け必死に練習しました。対抗戦、遠征、合宿などを通じ 共に走った陸上部での数多くの思い出も忘れられません。彼は酒も強く大勢の人から一目置かれる人望の厚い人間でした。だれもが吉村君の将来の大活躍を疑っている人はおりませんでした。そんな彼が若くして病に倒れてしまい思いがかなわず誠に痛恨の極みでした。スーパースターだった吉村君 どうか安らかにお休みください。お疲れ様でした。
-- HP管理人(吹田)追記:
遠藤さんは800m,1500mの元学内記録保持者、1500mでは本学で初めて3分台を記録
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同期の後藤さんより頂きました。
吉村研一君を偲んで
昭和40(1965)年入学同期の主将を務めた吉村君は長崎東高時代に国体400m 4位、昭和39(1964)年東京オリンピック長崎県聖火ランナーなどの陸上実績に加え、統率力あるナイスガイでした。心身共に偉丈夫で将来を嘱望されていただけに、八幡製鉄(→新日鉄)入社後、若くして病に倒れ不自由な身体となったことはさぞ無念だったことと思います。
吉村君が持った聖火トーチを2度手にしたことがあります。北九州市の自宅へ同期仲間達で療養見舞いに行った時と、国立グランド全天候化前の土の旧グランドお別れ会で参加叶わぬ吉村君の代りにと同期の池田君が北九から取寄せ、当日トーチに火を灯しグランドを皆で1周した時です。あれから11年の歳月が流れ、君の命の火は遂に消えてしまいましたが、君との思い出の火は消えることはありません。
長崎の実家や大分県杵築の親戚宅逗留、同期の中で金廻りの良かった君は夏痩せの僕を見かね?ウナギ姿焼きを時々奢ってくれました。万寿山の餃子がご馳走だった身には、あのウナギは最高でした。僕から君に奢った記憶はないから、歌の文句ではないが「借りは向うで返すから」食べたいものをゆっくり考えておいて下さい。
4年生の夏、君は昼食後コップの水に鎮痛剤アスピリンを溶かしながら、足首の激痛に珍しく弱音を吐きました。旧三商大戦7連覇を逸した主将の君は東大戦に向け期するものあり、そして迎えた9月の東大戦、君は足首が壊れてもの覚悟で400m、400mH、800m、1500m、1600mリレーで1位か上位の大活躍で東大戦勝利の原動力に、特にマイルリレーでアンカーとして思いの全てをぶつけた君の激走を僕は忘れません。只々ご冥福をお祈りします。どうか安らかにお眠り下さい。
後藤哲也(昭和40年入)
-- ここからHP管理人(吹田)追記:
後藤さんが言及している、昭和43(1968)年の東大戦の結果を70周年誌より抜粋しました。ご覧のようにこのころの東大戦は今よりはるかに種目数が多く大変でした。
吉村さんの出場個所を赤く囲いました。800,1500で優勝、これだけ多種目に出た上で1500mは自己新、当時学内2位の記録で、56年経った今でも50傑の35位(2024年現在)です。
なお100mで1位、200,400mで2位の浜田さんは前OB会会長、浜田愃さん
今年、一昨年とover300歳で三商大、4x100mに出場の池田さん、後藤さん(ともに昭和40年入)、橋本さん((昭和41年入)は吉村さんと一緒に戦った方たちです。
しゃがんでいる前列の一番左が吉村さん、同じく右から2人目が後藤さん
昭和42(1967)年10月22日の東大戦、4x400m 1走(池田、3年)から2走(吉村、3年)へ
昭和49(1974)年、霧ヶ峰合宿応援に駆けつけた吉村さん(左端に立つ眼鏡の方)、右の女性は初の女性部員だった大田弘子さん 井田さん(昭和51卒)提供