訃報 浅井勝美さん(昭和37年入)

 今年のAthletik Freundを送付したところ、本年3月26日に亡くなった、今回の冊子を最後として、夫にお供えさせていただきます。これまでの長い間、ご連絡頂きましてありがとうございました と奥様から返信がありました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

後列右から5番目が浅井さん、就職先まで決まっており卒業予定だったはずが、ぎりぎりの段階でこの年も留年されたとのこと
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一番左が浅井さん
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浅井さんを知る何名かの方から一言いただきましたので、掲載します。

◆後藤さんから
「浅井さんを諸々偲び」
(1)共に長い一橋と東大の陸上競技の歴史の中で、兄弟選手同士で対校戦に出場したのは浅井兄弟のみ。S37年の東大戦、東大短距離選手の実兄は400mで優勝、浅井さん本人は1年生ながら走高跳で2位。
では、浅井さんは跳躍種目の選手かと言えば然に非ず、砲丸投11m69(歴代9位・当時の当時の学内新)、やり投は53m近く投げ、100m11秒5の走力で走巾跳、110mHもこなす混成種目向きの才能豊かな万能選手でした。
投擲種目を中心に浅井さんの踏ん張りのお陰で勝利した対校戦も幾つかありました。

1963(昭和37)年の東大戦の結果
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砲丸投で学内新を出した1967(昭和42)年の東大戦の抜粋、この時槍投げも
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(2)夏の合宿所での消灯後の体験豊富な浅井先輩の夜な夜な話は毎度楽しませて頂きました。オーストラリア留(遊)学時の荷物で母上にお叱りを受けたこととか失敗談を聞きながら、昼間の練習の疲れを癒したものです。大阪の名門・天王寺高校から一橋商学部に現役入学の文武両道(のはず)の浅井さんが何故長期在学か諸説ありますが、真偽の程はさておき「将来の夢、小説家のためのネタ集め」説に浅井さんらしいロマンあり私は一票を投じたい、そして「夏合宿夜話」の続編を小説家浅井さんに期待していましたのに、旅立たれてしまい残念です。

(3)では、小説家浅井さんらしい文章が何処かにないか?ありました!
1969年アスレティックフロイントの浅井さんの「酒と土の日々」から適宜抜粋。
『酒なくして私の部生活は語れず、グランドなくして酒は語れません。〜クラブハウスでの生活〜私にとってあの頃はグランドの土の匂いと共に青春の1ページを飾る豪華絢爛たる日々でした。〜友と酒を飲み人生を探り女を語るもいいではありませんか。〜学生時代はもっともっと無駄なことをやりましょう。そして自分を開放して友と語ろうではありませんか。もっと神経を太く持って、競技に励み、酒を飲み、包容力を養い、肉体を精神を錬磨しながら、生きる事の値打ちを探ろうではありませんか。偉大なる馬鹿者は陸上部から消え去ったのでしょうか。馬鹿者よ、大志を抱け!馬鹿者よ、酒を飲み踊ろうではないか。』

(4)7連覇がかかった旧三商大戦の前に浅井さんは真剣な表情で後輩達に「皆さん、大阪長居での試合後の旅行の方に気が緩んでるが、今年の神戸は強いぞ」と。結果は神戸46点/一橋45点で最後の800mリレーに望み繋ぐも逆転成らず浅井さんの予言的中。当時4年生だった私達の責任大、浅井さんスイマセンでした。

編集者(吹田)追記
浅井さんはやり投げ 52m80cmで歴代18位(2024/05現在) また当時の東大戦の結果や本人の写真を70年史より抜粋しました。

◆岩瀬さんから
 浅井さんは9年在籍された豪傑です(留年4年+休学1年)。
豪快に見えて実は繊細な面を持った優しい人でした。
色々な企業や職業を転々とされ、最後はパチンコ、スロットで全国展開し一時は上場していた 潟_イナムの取締役・監査役をされていました。
大分前から体調が良くないとは聞いていましたが、2〜3年前から年賀状が来なくなったので 心配していました。ご冥福をお祈りします。

◆西会長から
 浅井さんは私が入学した時の監督でした(はずです)。
1年生の時の三商大前にグランドに来られて、現役に猛烈なはっぱを掛けていたことを記憶しています。
往年の名ランナーの津島さんをコーチに招聘されたのも浅井さんだったと思います。
諸般の事情で一橋のコーチは早々に辞められて、私が現役時代は津田塾のコーチをされていました。