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 「陽明会の“絆”」・・・青木 俊樹(昭和42年卒)

青木さん 昭和42年3月に一橋大学陸上競技部を卒業した同期の集まりを「陽明会」という。 同期生8名(織田邦利君、鈴川準二君、松本正義君、水野晴夫君、山崎隆一郎君、吉田輝夫君、吉田良造君、それに私)の繋がりである「陽明会」は、 卒業以来44年間続いていることになる。還暦に入った頃から我ら「陽明会」の繋がり・絆は更に強まってきている。 永久幹事を快諾してくれた吉田良造君の日頃からの気配りや松本正義君が2004年に住友電工の社長に、昨年6月に如水会理事長に就任したことも絆を強くしている一因である。

「陽明会」のいわれは卒業直前の台湾旅行にある。昭和42年3月、我ら陸上競技部員は、当事米国統治下にあった沖縄に遠征した。 現地の琉球大学の柔道場に寝泊りしながら合宿し、沖縄大学なども含めた記録会を行った。 そのとき、卒業目前の我々4年生は「今更合宿だけではない。大いに見聞を広めよう」ということで、那覇から台北に飛んだ。 卒業生名簿から台湾在住の先輩を探して訪ねるなど安上がりのために様々な工夫を凝らした。 名簿を調べると、先輩には「元台北市長」の呉三連氏(大正14年卒)や高雄在住の実業家で奥様が岡山県出身の王江寿氏(昭和21年卒)など錚々たる先輩がおられた。

先輩とは本当に有難いもので、台北では本場の中華料理をご馳走になった。高雄では加工出向区の現地視察などをさせてもらった。 三菱商事台北駐在の大曲則彦さん(昭和38年卒)には現地でのアレンジをして頂いた。 先輩方への恩義は生涯忘れられない。こうした忘れがたい思い出の台湾旅行。 その際に訪れた台北市郊外の「陽明山公園」から、我ら同級生の集まりの名を「陽明会」とした。

なぜ昭和42年3月に沖縄遠征が出来たのか。昭和40年頃の陸上競技部は大変強かった。 三商大戦に勝つのは当たり前。田舎大学に勝って喜んでいては駄目だ。敵は東大だ。東大戦に勝って始めて一人前だ・・・と厳しく先輩に指導されていた。 昭和40年には、試合前に、ひょっとしたら「勝てる」というところまで来ていた。しかし結果は惨敗。 東大の壁の厚さを痛感させられた。それから1年。我々は必勝を期して更なる精進をし、 翌41年の東大戦ではなんと15年ぶりに、しかも最後の800Mリレーを制して勝利した。 この劇的な勝利に感動した先輩方が「沖縄遠征」をプレゼントしてくれた。 昭和42年1月、織田邦利君と当時の主将遠藤恒夫君(昭和43年卒)と私の三人が、 倶楽部幹事長の吉見泰二先輩(昭和11年卒)のお宅に呼ばれ、沖縄遠征の申し渡しを受けた。そのときの感動は今も忘れない。

我々昭和42年卒の同期は「陸上バカ」と言えるほど陸上競技が好きで、その上団結が強かった。 「陽明会」を長続きさせるための仕掛け=同期のファンド=も作った。 たまたま私が興銀に入ったこともあって、同期のファンドは私が管理している。 月給から1000円ずつ送金してもらうことから始め、後にボーナス毎1万円を送金してもらうことにした。 60歳まで40年近く続けた。大学への寄付やOB倶楽部への寄付などもここから捻出した。 全員が予定通り支払い、60歳を迎える頃には差し引き400万円を超える残高となった。 定年間近になり子育ても終わりに差し掛かってくると夫婦同伴で懇親会を持つようになってきた。 そのうち奥様方から陽明夫人会なるものをやりたいとの要望が出てきた。 夫人会の費用は全額ファンド持ちである。奥様方も「おいしいお昼が食べられる」ということで、自然と幹事持ち回りで開催するようになって来た。 陽明夫人会は今も和気藹々とした雰囲気の中で継続している。

最近流行の言葉で「無縁社会」というのがある。 未曾有の東日本大震災を受けて、かつて日本の強みでもあった社会の繋がり・絆の重要性が改めて見直されている。 ささやかながらも、こうした同期の仲間の繋がりを通して、これからも長く「陽明会の絆」を大切にしてゆきたい。

(昭和42年商卒 一橋陸上競技倶楽部会長 日本テクニカルアナリスト協会特別顧問)

如水会会報橋畔随想 (2011年8/9月)より転載